2008年 02月 25日
浜崎あゆみと倖田來未に見る時代考察
人によって好き嫌いはあるとはいえど、
ともに一時代を築き上げ、圧倒的な支持を得ている女性シンガーだが、
この2人はあまりに対照的だ。

ただ私はずっと不思議に思っていたことがある。
私は双方ともにほとんど曲を聴かないが、
浜崎あゆみに人気があるのはわかるし、
彼女の詞の世界観の素晴らしさは理解できるのだが、
倖田來未が「羊水発言」でバッシングされたとはいえ、
なぜあんなにも人気があるものかと。
彼女をバッシングする理由はいくらでも思いつくが、
彼女がなぜ人気なのかの理由がわからなかった。

そこで、浜崎あゆみと倖田來未双方を比較しながら、
その立ち位置と時代背景を考えた上で、
二人の社会的役割を私なりに分析してみようと思う。

(注:二人をそれぞれ何年も前から追っかけて考察しているわけではないので、
ファンの方にとって不十分・不満足な点があるかと思いますが、
ファンでもなんでもない人にとって、二人をどう捉えるかといった視点での、
私なりの勝手な分析ですのでご了承ください)

<1:「3歌姫」の時代推移>
二人を考察する前知識として、
女性シンガーの時系列の歩みを頭に入れておくと理解しやすい。

●1995年-1997年:安室奈美恵の時代
・1995年:東芝EMIからエイベックスへ移籍。小室哲哉プロデュースになった途端、大ヒット連発。
・1996年:“アムラー”現象(茶髪ロングヘアー・ミニスカート・細眉・厚底ブーツ)
・1997年:『CAN YOU CELEBRATE?』が200万枚。TRFのダンサー・SAMとの電撃結婚&妊娠を発表。
・1998年:産休で存在感が薄れていくと、浜崎あゆみが登場。

●1998年-2003年:浜崎あゆみの時代
・1998年:1stシングル発売、3rdシングル「Trust」でオリコントップ10入り。
・1999年:1stアルバム『A Song for ××』でオリコン1位獲得。約150万枚のセールス。紅白出場。
・2000年:初コンサートツアーも、左耳の疾患(内耳性突発難聴)により一部公演を延期。
・2001年~2003年:レコード大賞3連覇達成するなど、圧倒的な存在感。
・2004年:エイベックスお家騒動を理由に賞レース辞退し、メディア露出が一時期より減る。

●2004年-2007年:倖田來未の時代
・2004年:「キューティーハニー」でブレイク。
「エロかっこいい」「エロかわいい」「エロカッコかわいい」など一躍注目される。
・2005年:16枚目のシングル『Butterfly』が初登場2位と自己最高記録。日本レコード大賞受賞。
・2006年:5thアルバム『Black Cherry』初回出荷150万枚。オリコン4週連続1位。
・2008年:「羊水発言」で活動自粛へ。

<2:歌詞の世界観の違い>
さて本題の浜崎あゆみと倖田來未だが、
大きな違いは歌詞の世界観にある。
非常に単純な二分をすると下記のようになる。

浜崎あゆみ:切なさ、暗さ、辛さ、弱さ、相手依存
倖田來未 :ノリの良さ、明るさ、楽しさ、強さ、自分依存

浜崎あゆみの歌詞はほんと切ないし、だからぐっとくるし、
聴いているだけで同時代、同世代の女性は、
自分の心の涙腺にふれ、ふっと涙が出てくるのではないか。
人生の儚さ、幸せの儚さ、光の裏にある闇、
永遠なんてない、ゴールはどこまでいってもない……。

でもそうした生きにくい、息苦しい時代、社会の中でも、
一歩一歩だけど歩いていくしかないんだというような、
悲壮な決意さえうかがわれる。

ある意味では非常にミスチル的「終わりなき旅」的世界観が貫かれている。
彼女の歌詞は、物質的には豊かだけど心が満たされない現代社会を、
包み隠さずズバリ本音で歌いながら、
そういう時代の中で「等身大」の自分を背負って生きていく、
宿命や覚悟みたいなものが感じられる。

浜崎あゆみのこうした社会的背景を感じさせる世界観は、
日本社会では、小泉純一郎内閣発足前、戦後最長の好景気がはじまる前の、
1998-2002年という長らく停滞した時代とリンクしている。
どこまで行っても先が見えない長いトンネルの中を、
自分の歩みだけを頼りに一歩一歩歩く。
そのはかない歩みがまさに浜崎あゆみと折り重なったのだろう。

一方、倖田來未は総じて明るい。
そもそも浜崎あゆみが自らの血肉を削り取るような、
痛ましい歌詞を自らすべて書いているのとは違い、
倖田來未の曲は、歌詞は彼女すべてではない。
そもそも音楽性として、浜崎あゆみのように、
歌詞を聴かせるための歌というより、
リズムの良さと音楽的なノリの良さで、
聴く人を心地良くさせる「快感」に主眼が置かれている。

ブレイクした「キューティーハニー」はその最たる例で、
歌詞がどうのと言う前に、聴いただけで体が動いてしまうようなノリと、
ファッションとしての音楽的色彩を強めている。
だからこそ倖田來未の音楽には、コスプレ的ファッションも重要な要素になる。
聴いて魅せて踊る音楽なのだ。

多分、長らく続いた日本の低迷時代に明るい兆しが見えてきて、
自信を持ってもいいんじゃないのってムードが漂ってきたこともあるだろう。
長らく続いた「あゆの時代」も、
いつまでも切なく苦しく辛い歌だけでは、
時代を乗り切ってはいけないと聴く側の意識が変化したこともあるだろう。

そして浜崎あゆみ(1978年生まれ)と倖田來未(1982年生まれ)に、
4年の年の差があるように、
「あゆ」を聴いた女子高生や女子大生が社会人になった時、
音楽マーケットの新たな中心となった若い世代にとっては、
重く苦しい「あゆ」の歌も悪くはないけど、
あゆ世代より少子化がさらに進んで育てられたこともあり、
どちらかというと自分に自信があるし、
そんなに世の中悲観してないというか、
面倒なことは考えたくないしといった雰囲気から、
倖田來未のような、ある意味では「開き直った」明るい音楽の方が、
時代にマッチしたのだろう。

歌詞を見比べると、
浜崎あゆみは、恋や夢に対しては受身的な面が見られるし、
どちらも手に入れたとしても常に失うことの恐れを意識している。
ところが、倖田來未となると、
恋や夢は自分で掴み取るものだし、掴み取れるものという、
圧倒的な楽観主義が貫かれている。
また浜崎あゆみの詞の世界が内面に重きが置かれているのに対し、
倖田來未の世界は外、外見、形、肉体に重きが置かれているような気がする。

生きるのが切なく辛いなんて言ってるなんて古臭いし、
そんな陰気なことはやめて、
明るくぱっとポジティブに生きようぜって感じが、
倖田來未の方がやや強い。
それが2004年以降の日本社会には合っていたのではないかと思う。

<3:自分の呼び名の違いに見る、自分とのスタンス>
私が最も2人の違いで気になっていることが、自分をどう呼ぶかである。
浜崎あゆみは自分のことを「あゆ」と呼ぶ。
すっかり定着して何の不思議にも思わないかもしれないが、
自分を自分の下の名前で呼ぶというのは、
これまでの時代になかった実に画期的異変ではないだろうか。
「あゆ」効果により、若い女の子の中には、
誰かと話をする時、自分のことを「あゆはね」というように、
自分の名前で呼ぶ人もいると思うが、
これが定着したのは「あゆ」出現以降ではないかと私は思っている。

一方、倖田來未が自分のことを「くみ」と呼ぶことはない。
「くぅちゃん」といった愛称があり、
著書等では自分のことを「くぅちゃん」ということもあるようだが、
テレビでの会話や雑誌などのインタビューで、
「くみはね」とは言わないし、「くぅちゃんはね」という言い方はしないように思う。

いわゆる一般的な一人称である「私」が多いように思うのだが、
それより何より、彼女が結構使うのが、
「倖田來未はね」「倖田來未的には」と、
自分のことを芸名のフルネームで呼ぶことだ。

これも実は普通一般では使わない呼び方だ。
みなさんの周囲に自分のことを自分のフルネームで呼ぶ人がいるだろうか。
謝罪会見でも「倖田來未の発言に傷ついた人に・・・」と、
自分のことを他人事のようにフルネームでいう用法を使っていた。

それでは「あゆ」と「倖田來未」という呼び名の違いに、
どのような意識の違いがあるのか、考えてみたい。
浜崎あゆみが自分のことを「あゆ」と呼ぶ。
本来なら家族や恋人が呼んでくれるであろう愛称を、
自ら先に名乗ってしまう。
誰も呼んでもらえないから、自分から名乗るという「寂しさ」からなのか、
自分がかわいい、自分が好きという意味で自ら愛称で呼ぶのか、
愛情に飢えていて、自分を愛して欲しいという訴えにも聞こえる。

また自分のことを自分の呼び名でしかない固有名詞で呼ぶことは、
ある意味では、「等身大の自分」を常に背負っていく覚悟もうかがわれる。
あゆはあゆでしかない。
あゆという与えられた条件で生きていくしかない自分。
自分に満足だろうが不満足だろうが、
自分自身が自分と付き合っていくしかないという決意とも取れる。

一方、倖田來未が使う「倖田來未」は自分本来の姿とは違い、
メディアや芸能界で作られた別の人間としての「倖田來未」というニュアンスがある。
ある意味ではメイクやファッションによって、自分は晴れの舞台では、
「倖田來未」に変身しているという意識が読み取れる。
コンプレックスのある自分を抱え込まず、
理想の自分、綺麗な自分、変身した自分、それが「倖田來未」。

倖田來未が「倖田來未」を演じている。
本当の自分は別のどこかにいて、それには不満を持っていたとしても、
「倖田來未」に変身すれば明るく強く綺麗な自分になれるという思い。
それが自分のことを客観視、第三者視するようなフルネームで呼ぶ、
ということに表れているのではないか。

だからこそ浜崎あゆみを支持する人は、
「あゆ=自分」という等身大を背負いながら生きていこうと思うだろうし、
倖田來未を支持する人は、
メイクやファッション一つでいつでも「倖田來未」に変身できるという、
変身願望的理想の自分を彼女に投影し、自信をつける。


このように、浜崎あゆみと倖田來未の表現の仕方は対照的だ。
どちらがいい/悪いの問題ではなく、
今の社会と時代の中で、自分はどう生きていくかという、
その方法論の違いで、その方法が時代によって、
「あゆ」が支持されたり「倖田來未」が支持されたりということになるんじゃないかと思う。

1995-1997:安室奈美恵、1998-2003:浜崎あゆみ、2004-2007:倖田來未と来たが、
次の時代を担う新たな「カリスマ」が表れるのか。
それはどんなスタイルをまとったキャラクターなのか。
それによって日本社会や時代背景を占う一つの指針になると、私は思っている。

※ミスチルがなぜ支持され続けているかといえば、
浜崎あゆみ的(ネガティブ)世界から、
倖田來未的(ポジティブ)世界を、時代とともに、社会の変化とともに、
また桜井さん自身の心境と合わせて、見事に曲や詞の世界観を、
違和感なくシフトさせてきたからだろう。

そうやって時代とともに表現スタイルをシフトできるアーティストが少ないため、
みな一時代の役割を担うと「リバイバル(再評価)」されるまで下火となる運命となり、
新たな時代の担い手によって変わられてしまうんだろうな。

※以上、私の独断と偏見に基づく勝手な考察です。

<参考資料:ベスト盤に見る歌詞比較>
■浜崎あゆみ
・「A Song for XX」
どうして泣いているの どうして迷ってるの
居場所がなかった 見つからなかった
いつも強い子だねって言われ続けてきた

・「Trust」
はやすぎる速度で取り巻く世界にはいつしか疲れて
愛情を救いの手も求め続けてきたけど
あなたから見つけてもらえた瞬間
あの日から強くなれる気がしてた 

・「Depend on you」
目指してたゴールに届きそうな時
本当はまだ遠いこと気付いたの?
一体どこまで行けばいいのか
終わりのない日々をどうするの? 

・「LOVE~Destiny~」
ねえ ほんとは 永遠なんてないこと
私はいつから 気付いていたんだろう 

・「Truma」
人が求めてやまないのは 一瞬の解放が
やがて訪れる恐怖に勝っているから 

・「appears」
まるで全てのことが 上手く
いっているかのように 見えるよね
真実はふたりしか知らない 

・「FLY high」
怖がって踏み出せずにいる一歩が
重なっていつからか長く長い
道になって手遅れになったりして 

・「SURREAL」
大事なモノならそこに必ず
痛み伴うはずだよね
ひとりぼっちで感じる孤独より
ふたりでいても感じる孤独のほうが
辛い事のように 

■倖田來未
・「Chase」
はやる気持ちはもう夏のゲーム いざ開始!!
大切な恋だから 必ずつかみとる 

・「奇跡」
叶わないものを叶えていく力が
世界にはきっと満ち溢れているから 

・「hands」
冷たく凍えそうなmy hands
こんなに想っているのに…
「本当は引き止めてほしい」
そう言いたかった… 

・「Hot Stuff」
行くぜ 間違いねえぜ やるぜ
マジ止まんねー そう All day all night
追っていくぜ一生 やりたい放題

・「Butterfly」
信じたい未来を今この手 掴みとるから
諦める事は まだ早いの
綺麗になる Burning Heart
もっと もっと輝けるわ Butterfly 

・「Promise」
胸に込み上げ 溢れる涙
止めることももう 出来ない私
いつまでも続く現実は 儚い夢になるとは 

・「Star」
甘いそう甘い ミルクシェイクのようなKissで
私の全てを飲みほして


by kasakoblog | 2008-02-25 18:00 | 音楽


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