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カミサマのいる町

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迷路のようなヨーロッパの旧市街を、
歩き回って疲れて、ふっと見上げると、
そこに荘厳な教会が立っている。

教会は見ず知らずの者にも門戸は開かれており、
観光名所であっても入場料をとられることはまずなく、
勝手に入ることができる。

そして中に入って圧倒される。

なんだ、これは、一体・・・。

あまりのスケールのでかさ。すごさ。
薄暗がりの中に灯る光の中で、
一筋の希望の光のように、
真っ直ぐに伸びた道の先に“カミサマ”がいる。
信仰心のない私でも、
思わず、ここにひざまづき、
カミサマに向かって祈ってしまう。
そんな神妙さがある。

今回、17都市のヨーロッパの町を巡ったわけだけど、
どこに行っても必ずといっていいほど教会があり、
歩き疲れてどこかで休みたいと思った時に、
ばったり路地を抜けて教会にでくわすと、
迷わず教会に入って、そこの椅子に腰掛けていた。

カミサマのいる町。
ヨーロッパはどこにいっても、
どんな小さな町でもカミサマ(教会)がいる。
信仰心のない私ですら神妙な気持ちにするのであれば、
ここで生まれ育ち、カミサマに祈る習慣のある人たちなら、
なおのことその信仰心は深いものがあるだろう。

ニンゲンにはカミサマが必要だと私は思う。
それは何だっていい。
教会だろうが本だろうがニンジンだろうが彫像だろうが。

なぜってそれは人って欲深いから。
人って何の縛りも何の視線もなければ、
己の欲望に従って行動してしまう、浅はかな動物だと思うんです。

でもすべてのニンゲンが欲望のまま勝手に生きていたら、
人と人の争いが絶えず、社会はめちゃめちゃになってしまう。
だから人の欲望を抑制するカミサマ=宗教=ルール=法律が必要になる。

日々の生活に規制を加える様々な“戒律”だけでなく、
街に教会がすぐ近くにあり、そこにカミサマがいると思うだけで、
人は“見られている”ような感覚になり、
悪いことはできないなと思う。

でも残念なことに日本にはそうしたものがない。
人の欲望を抑制する、他人の監視の目となるような、
“カミサマ”がいない。
だから欲望のまま犯罪を重ねるニンゲンが多いのではないか。

また実際には存在しないフィクションとしての“カミサマ”が、
日本にはいないからこそ、
欲望を持ったニンゲンが“カミサマ”になってしまうという、
最も恐れるべき事態が起きてしまう。

検察や警察や弁護士の暴走は、
カミサマ(宗教)なき社会において、
唯一絶対の神は法の番人である自分たちだと勘違いする。
だから自分たちの権力欲や出世欲を満たすために、
カミサマ気取りにとんでもない罪の裁き方をしてしまう。

何だっていい。
町にはカミサマが必要だ。
ニンジンだって人形だって何だっていい。
ニンゲン以外ならば。

それぞれの欲望を“カミサマ”の存在によって、
個々人が抑制することによって、社会が円滑に進む。
しかし今の日本にはカミサマがいないからこそ、
カミサマ気取りのニンゲンが登場し、
社会正義をねじ曲げてしまうのだろうと思う。

カミサマは実在しないからこそ、
フィクションだからこそ、
ニンゲンに対して抑止力を持ちえる。
リアルに存在するニンゲンになってしまったら、
もはやそれはもうカミサマではない。
その社会には悲劇が起きてしまうだろう。

by kasakoblog | 2010-10-06 21:54 | 政治

好きを仕事にするセルフブランディング&ブログ術を教えるかさこ塾主宰。撮影と執筆をこなすカメラマン&ライター。個人活動紹介冊子=セルフマガジン編集者。心に残るメッセージソングライター。


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