好きを仕事にする大人塾「かさこ塾」塾長・カメライター・セルフマガジン編集者かさこのブログ

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2001年 10月 28日

地雷を踏んだらサヨウナラ

1972年、カンボジアで戦場カメラマンとして活動していた一ノ瀬泰造の物語を映画化したもの。
当時、聖域として足を踏み入れることのできなかったアンコールワット遺跡をカメラに収めようとし、
享年26歳の若さで亡くなった。

映像のデキは最悪だが、ストーリーはおもしろいし、考えさせられることが多い作品ではある。
演技や全体的なシーンが嘘っぽく、迫真に迫るような臨場感が全くないのだ。
まあ、それはさておき。

戦場カメラマンというのは本当にハイエナだよな。
無名のカメラマンたちが、戦場という危険に裏打ちされた「特ダネ」を求めて、
戦争をやっているところで、殺される人々を写真に収めていく。
その写真が鮮烈で悲惨なほど、新聞社に高く売れるのだから。

彼がお世話になっているホテルの子供が殺された時、
彼は悲しみと同時に「特ダネ」感がよぎり、死んだ子供にカメラを向けるか迷うシーンがある。
その気持ちはほんとよくわかる。
別に僕は戦場カメラマンではないが、海外旅行をしていると、それに似た場面に出会うことがある。
地元の人々と親しくなったからこそ出会えた場面に、カメラを持ち出すことは、
写真としてはいいものが撮れるのにと思いつつも、やっぱりそこで撮るのはためらわれる。
しかしもし僕が「トラベルライター」としてお金をもらってやっていくとするなら、
それは「仕事」として撮るべきではないかという問題にぶつかるのだ。

同朋の戦場カメラマンの死や、親しくなった人々の死に出会う度に、
自分のやっていることと、そしてこの戦争が一体何なのかを否応なく考えさせられる。
些細な権力や領地争いのために、互いに傷つけ合い殺し合い、憎しみ合う人間たち。
次第に戦争が目的化し、何のために自分が戦っているのかわからなくなる。
ただ上の命令に逆らうことは許されないので、敵国の兵士を残虐に殺す。

戦争の中で中立の立場にあるカメラマンを主人公にすることで、
戦争の無意味さがより一層際立ってくるのだ。

つい先日、日本のフリーランスのカメラマンがタリバンに捕まったとのニュースが流れた。
戦場に群がるハイエナたちが、金と名誉と栄光を求めて、危険な戦場に乗り出していく。
もちろんそこには崇高な信念や高尚なテーマを持って望んでいる人も多いだろうし、
戦争にプレス(マスコミ)が全く入らないのも、
世界に何が起こっているかという事実を中立的に伝えるという意味では、考えられない。

しかし湾岸戦争時の石油にまみれた水鳥の映像がやらせだったように、
現代社会では資本主義という観点から、事実を伝えることより、
センセーショナルな映像や写真で「売れる」ものを撮ることが、
残念ながら意識的にせよ、無意識的にせよ発生してしまうのだ。

タリバンに機関銃を持ってポーズを決めてもらう写真を撮るのにいくら払っただとか、
お金を払ってお願いすると、注文通りのポーズを撮ってくれるということがあるらしい。

戦争と報道。
ブッシュは「新しい戦争」だというが、30年前の時代と、戦争と報道の問題は何ら変わっていない。


by kasakoblog | 2001-10-28 18:52 | 書評・映画評


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