2011年 06月 28日
両親を亡くし家を流されたシングルマザーの3ヵ月
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「なんか、さみしいね」

厳しい避難所生活3ヵ月を終え、
やっと市の借上住宅に移ることができ、
母娘水入らずで食事をした時の第一声が、
この「さみしいね」という言葉だった――。

はじめの1週間は毎食のように甘い菓子パンだけしかない生活。
はじめの10日間はお風呂にも入れず、着替えもない。
そんなつらい避難所生活が終わったにもかかわらず、
麻紀子さんも、4月に中学生になった娘さんも、
「さみしい」という言葉をもらした。

「テレビでもつけようか?」
3ヵ月間ほとんど見ておらず、
必要性を感じなくなったテレビの存在意義に
はじめて気づかされた瞬間だった。

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甚大な津波被害のあった、
福島県いわき市の沿岸部の薄磯地区で、
両親と娘の4人で暮らしていた、
シングルマザーの母、鈴木麻紀子さん(39歳)。

一生忘れることのない2011.3.11。
あの大地震が起きた時、麻紀子さんは、
いわき市内の鹿島工業団地内の職場にいた。
ものすごく長く、そして大きな揺れ。
今までに体験したことのない恐ろしい揺れだったが、
まさかこの時、自宅が崩壊するほどの大津波が来て、
両親と死に別れ、3ヵ月もの避難所生活を送るとは、
夢にも思わなかった。

大きな地震の後、数度の余震があり、
尋常ならざる事態と判断した会社は、
16時過ぎに今日の業務は終了にして、
社員に帰宅するよう指示を出した。

電話は通じない。娘は?両親は?
安否が気になる麻紀子さんは一路自宅へと急いで車を走らせた。
しかし自宅のある薄磯地区へと向かう途中の道で止められたという。
「火事が起きているので近づかない方がいい」

自宅がどうなっているのか、娘や両親は無事か、
なんとか確かめるために自宅に行かなければならない。
そこで違う道から薄磯の方へと近づいた。

薄磯地区に入る手前の道から、
麻紀子さんは信じられない光景を目の当たりにした。
町が破壊つくされ、跡形もない街並みを。
「まさか津波のせいだとは思いもしなかった」と麻紀子さんはいう。
しかし目の前の廃墟と化した町並みを見て、
全身血の気がひいていくのがわかった。
娘は?両親は?自宅は?・・・・・・

自宅のある薄磯の町に立ち入れる状況にない。
目の前の光景が未だに信じられなかった。
現実なのか夢なのか定かではない心境のなか、
とにかく家族の無事を確認したい一心で、
市内の避難所を探し回った。

夜22時過ぎになって、薄磯の町から近い、
塩屋崎カントリークラブで娘と再会をした。
このカントリークラブには薄磯の人たちが多く避難していた。
娘は無事だった。
学校から家に帰る下校途中だったらしい。
あまりの大きな地震にその場で動けなくなったが、
近所のおばさんに連れられて、避難し、
津波被害の難を逃れたという。

しかし両親がいない。
娘が無事なのだからきっと両親もどこかで避難したはず、
と思いながら、津波の惨状を見てぞっとする思いだった。
寒さや余震に震えながらほとんど眠ることもできず、
3月12日を迎えた。

翌日は両親探しに奔走した。
近所の人たちに聞きまわっても消息がつかめない。
薄磯の人たちの一部が避難している、
豊間小学校へ探しにいったが、両親はいなかった。

塩屋崎カントリークラブでは電気も水も復旧しておらず、
小さな子供のいる世帯やお年寄りから、
いわき市内の平工業高校に移ることになった。
まさかこの高校の体育館で3ヵ月も暮らすことになるとは思わず・・・・・・。

平工業高校に移ってからも、両親を探す毎日に明け暮れた。
事情が事情だけに会社を休むことはできた。
各避難所を巡ってみたけど両親は一向に見つからない。
もしかしたら病院に運ばれているのではないかと病院に行ったが、
いわき市は福島原子力発電所事故による放射能漏れの危険のため、
病院には外部の人間は入れないと断られたという。

あちこち探し回ること1週間。
どこかで生きていてほしいという気持ちと、
もうだめかもしれないという想いが交錯するなか、
両親が死んでしまったと認める行動のようでいやだったが、
遺体安置所を探すことも始めた。

震災から1週間後。避難所に電話が入り、
父親らしき遺体が自宅付近の瓦礫の中から見つかったという。
床屋の仕事着を着ていたから父親に間違いなかった。
傷も少なくきれいな顔をしていた。
やっぱり死んでしまったのかという悲しい気持ちと同時に、
遺体が見つかってよかったという気持ちが入り乱れる。

父親が遺体で見つかったことで、
一緒にいたはずの母親も死んでいる可能性は、
かなり高いかもしれないと覚悟をした。
父が見つかれば母もすぐそばにいて、
きっとすぐに見つかるはずだと思ったが、
なかなか見つからなかった。

避難所に「町で遺体が見つかった」と連絡が入る度に確認していた。
そして震災から2週間後。
「男の人らしき遺体が発見されたが、
どなたか身元を確認してほしい」とのことで、現地に赴いた。
するとそれは母親だった。

瓦礫、瓦礫、車の瓦礫、母、瓦礫、車の瓦礫、瓦礫、
みたいな状態の中から発見されたという。

これでやっと両親が見つかった。
でも未だに現実感がない。
死を受け止められない気持ちもあるが、
両親が見つかったことにほっとした想いもあった。
最悪の場合、遺体すら見つからないケースだってあるのだから。
そう自分を慰めるしかなかった。

自宅は2階部分だけが残り、
しかも自宅にあった場所から50mも先に流されていた。
2階のタンスの引き出しの中にも水が入っており、
畳も盛り上がっていた。
2階まで津波が来たのだろう。

「きっと両親は津波なんか来ないと思って、
逃げなかったんだと思います。
それにうちは海沿いに一番近い通り沿いに、
あったわけではなかったですから」

幸いにして父と母のアルバムは自衛隊のおかげでいくつか見つかった。
父は70歳、母は66歳。

「娘と2人で旅行する機会が多かったので、
今度は両親も連れて旅行に行こうなんて、
そんな話も出ていたのに、叶わぬ夢になってしまいました。
もっと早くに連れていってあげればよかった・・・・・・」

両親を探し回るつらい2週間が終わった。

・・・・・
麻紀子さんは地震当時、
津波被害の自宅にいなかったことから、
自分の車が助かったので、
避難所生活でも足があるので、
両親の消息を探しに行くことができた。
しかし震災直後からガソリン不足に悩まされた。
しばらくしてガソリンの支援があったのが何よりありがたかったという。

はじめの1週間、両親が見つからないなか、
苦しめたのは菓子パン地獄だ。
このような状況のなか、食べ物があったのはありがたいことだが、
1週間、朝食も昼食もアンパンなど甘い菓子パンしかなかったという。
リアルスーパーサイズミーみたいな話。

「パンでも食パンとかなら1週間続いても、
平気だったと思いますが、
毎日甘い菓子パンばかりはかなりしんどかった・・・・・・」

甘い菓子パンが毎日続きしんどかったという話は、
ここの避難所の誰に聞いても真っ先に出てくる話だった。
いわき市が食糧確保のために、
複数の担当者がとりあえず菓子パンを、
大量に発注したことが原因だったらしい。

被災者の方々はもちろんよくわかっている。
他の地域の避難所ではろくに食べ物すらない、
厳しい状況のところもあっただろうし、
食糧があるだけありがたいと思わなければならないと。

でも自分の身に置き換えたらどうだろう?
今まで何不自由なく毎食好きなものを食べていた生活から、
突然、体育館での集団生活で、
毎日夕食以外は菓子パンだけを食べる生活を・・・・・・。
たまにおにぎりが出ると大変なご馳走に思えたという。

1週間が経ち、次第に炊き出しをしてくれる支援も増えた。
「震災から1週間が過ぎて、
はじめてあたたかい汁物が出た時ほどうれしかったことはない」

震災からはじめてお風呂に入れたのは10日後だったという。
服だってろくに着替えられなかった。
親戚の人が服をくれて大変ありがたかったという。
「洋服や化粧品の支援物資はとても助かった」

3月11日から1ヵ月が過ぎると、
避難所生活は当初に比べて飛躍的に快適になった。
炊き出しの回数が多くなり、
菓子パンでなくあたたかい食事ができる機会が増えた。
自衛隊のお風呂や公民館のお風呂など毎日入りに行けるようにもなった。
仮設トイレにも電気がつくようになった。

両親のことや流された家のこと、この先の生活など、
不安だらけで夜になると寝付けない日が多かったが、
周囲に常に人がいることで安心して眠れるようになった。
いわき市を度々襲う余震の多さにも、
他の人と一緒ならそれほど怖くはなかったという。
「地域の人がまとまって避難所にいるから安心できた」
と麻紀子さんは言う。

4月10日から会社に復帰。
非日常であったはずの避難所という集団生活が、
いつしかごく当たり前の日常に変わっていった。

自動車が無事だったこともあり、ケータイの充電は車でできた。
「避難所の体育館でも充電できたけど、
子供たちのゲーム機充電待ちがすごかったから(笑)」

避難所では体育館に毛布を敷いて寝ていたという。
はじめに支給されたのは1人につき毛布1枚。
そのうち4枚もらえたので、2枚をひいて、2枚かけて寝た。
そうやって毛布の数を増やしていきながら避難所生活を送っていた。
「だから借上住宅に移って、たたみにお布団で寝た時、
こんなにお布団って気持ちいいんだって感動した」
とうれしそうに笑った。

テレビで取り上げられるような、
話題性のある避難所でもなければ、
大きな避難所でもないせいか、
芸能人はあまり来なかったが、
いろんなスポーツ選手が来てくれたのが楽しかったという。
「元バレーボール選手の三屋裕子さんが来てくれて、
軽い運動をしたのがすごく楽しかった」
避難所生活では食べて寝る生活になりがちなだけに、
運動するというのは気持ちいいことなのかもしれない。

3月11日から1ヵ月が過ぎると、
仮設住宅や借上住宅の話がいろいろ噂で聞こえてくる。
「麻紀子さんのところは母と娘だけだから、
早く市から連絡があるんじゃないか」とも周囲に言われ、
麻紀子さん自身も期待していたが、
市から打診があったのは4月30日だった。

しかも提示されたのは1Kの部屋。
「2人で1K?」と思ったが贅沢は言ってはいられない。
しかし部屋を見に行ってやめようと思った。
1階の部屋でベランダには津波で床下浸水があった跡があったからだ。
「津波で家を流され、両親を亡くしているのに、
津波被害があるかもしれない1階の部屋には、
さすがに心情的に住めない」と断ったところ、
市の職員から脅しまがいに、
「これを断ったら、いつ次の住宅を紹介できるか、
わからないけどいいんですね?」と言われたが、
「それでもいいです」ときっぱり断ると、
なんとその1週間後に別の住宅を紹介してくれたという。

今度は津波被害の心配ない海から離れたん場所でしかも2階。
そして1回目と同じく1Kだったがロフトがついていた。
「1回目に断っておいてよかった」と麻紀子さん。

しかし5月7日に部屋が決まったものの、
日本赤十字社の支援物資、家電6点セットが、
3週間後にならないと来ないというので、
仮の住宅が決まってもあと3週間は避難所生活となった。

やっと家電が来るという日もさんざんな目にあった。
9時から17時の間に来るというので、
会社を休んで待っていたが17時を過ぎても一向に来ない。
市にかけてどうなっているか問い合わせて、
折り返し電話くださいといっても電話が来ない。
確かヤマト運輸が運んでいるはずとヤマトに電話をかけたら、
19時ぐらいになるという。
どうも被災地のドライバーが足りていないらしく、
地元の地理を知らないドライバーだったため、
配達時間が大幅に遅れていたという。

「他の被災者の方も配達日に来なかったと聞いていたから不安になった。
ただでさえ新しい家に引っ越すために、
さまざまな手続きをしなければならないのに、
平日ずっと待たされるのは時間がもったいない」

両親を亡くし、家をなくした麻紀子さんのような世帯でも、
義援金の支払いはものすごく遅いという。

「5月に市から5万円、県から5万円もらっただけ。
6月になって日本赤十字社の35万円が振り込まれるとの通知がきた。
私の場合は幸いにして、
仕事がなくならなかったからいいようなものの、
震災から2~3ヵ月も過ぎてこれだけの義援金では・・・…。
3月に家も家財道具もほとんど失い、
家電6点セットが来たところで、
他の生活用品は自分で買いそろえなければならない。

しかもこの仮の住まいは2012年3月11日まで無料だが、
その後は有料になる可能性もあるという。
今の段階から光熱費は実費、自腹で支払わなくてはならない。

「中学生の娘と私とでロフト付きとはいえ、
1Kのアパートに一生というわけにはさすがにいかない。
でも来年、有料に切り替わる時に、
地元でいい物件があるとも限らない。
この先、どうなるかが心配」

流された自宅は借地だったので、
生まれ育った薄磯に住めるかどうかはわからない。
「そもそも薄磯の沿岸の土地は国が買い上げるといった噂話も聞きます。
早くどうするのか決めてもらわないと、
今後の生活設計が立てられない」

未だに避難所での生活が夢みたいで現実感がないともいう。
「まさか自分が被災者となって、
体育館で3ヵ月寝ることになるなんてまったく思いもしなかった」
ただ3ヵ月もの避難所生活がむしろ日常になってしまったがために、
ぽつんと2人で暮らす新しい仮住まいでの生活にまだ戸惑っている。

ただ避難所となっている合宿所で話を聞いたが、
終始、明るかったのが印象的だった。
無理して明るさを振舞っているという感じもなく、悲壮感もなかった。

失ったものはあまりにも多かったが、
幸いにして麻紀子さんには、
車と仕事が無事だったことから、
娘との2人暮らしもなんとか生活設計が立てられるからかもしれない。

「時々、自宅が流された薄磯に行く度に、
今までのことが本当に現実に起きたんだなって再確認しています」

被災者でない人にとってはもう3ヵ月かもしれないが、
被災者の人にとってはまだ3ヵ月。
またこれからも新たな試練が続こうとしている。

でも途方もない試練にもかかわらず、
麻紀子さんのように前向きに明るく生きている人たちがいる。
何不自由のない恵まれた生活をしていながら、
不満や不平を数え上げ、後向きに生きている人に、
こんな境遇にあっているのもかかわらず、
力強く生きている人がいることも知ってほしいなと思う。
(2011年6月18日取材)

※こころよく取材に応じてくれて、
写真も名前も出していいよといってくれたのは、
以前、テレビの被災地報道で写ったところ、
両親の友人がもしや娘さんではと、
連絡をとってきてくれたからだそうです。

NHKにも出ています
http://www.nhk.or.jp/dengon/photo/index50.html

被災地レポート&写真
http://www.kasako.com/110311top.html


by kasakoblog | 2011-06-28 22:17 | 東日本大震災・原発


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