2001年 12月 13日
人間失格マーシーの言葉に一理あり
信じられないニュースが飛び込んできた。
盗撮して謹慎し、やっとここ最近芸能界に復帰したばかりの田代まさしが、
またもや盗撮で捕まり、さらには覚せい剤所持まで発見されてしまった。
盗撮という愚かなる行為にもかかわらず、周囲のあたたかな配慮から、やっと復帰した矢先の出来事に、
ちょっと信じられないニュースだった。

2度目が発見されたら大変なことになるとわかっていながら、
またもややってしまったマーシーの心の闇とは一体何なのか?という興味はあるが、その考察はさておき、
実は今日おもしろい映像を芸能ニュースで流していた。
それは田代まさしが復帰後のここ最近、大学で講演したビデオだ。

ここでマーシーはこんなことを言っている。
「オレが盗撮した行為は許されないにもかかわらず、
オレはマスコミから謹慎中にパチンコやった姿を『盗撮』されて、
あることないこと書かれている行為は、一体どうなるんだ?」
(確かこんな内容だったように思う。正確ではない)

これに日本有数のパパラッチ、梨本リポーターがテレビで激怒した。
「なんだあいつは。そんなこと言っているからまたバカなことやるんだ。
自分の罪を棚にあげて、次元の違う問題にすりかえるなんて卑劣な奴だ。
芸能人がパチンコしている姿を撮られるのと、一般人がパンツを盗撮されるとのではわけが違う。
パンツを盗撮された人の気持ちを考えたことあんのか!!」
(確かこんな内容だったように思う。正確ではない)

思わず、僕は「梨本バカだな、こいつ!」とむなくそ悪くなった。
確かにマーシーがした盗撮行為は許されない。
しかし、一般人のスカートの中を盗撮するのも、芸能人の私生活を隠れて撮って、
あることないこと書きたてる行為と、僕はその犯罪性・下劣性においては、 マーシーの言う通り何ら変わりはないと思う。
梨本パパラッチは、自分の職業批判をされたからムキになって反論したんだろうが、
芸能リポーターのやっている行為は、芸能人のケツ追い掛け回して、 スカートの中のパンツを盗撮するのと何ら変わりはない。
パパラッチ梨本こそ、勝手に盗撮され追いかけまわされる芸能人の気持ちを考えるべきなのだ。

パパラッチのパパラッチ。 盗撮の盗撮。 ストーカーのストーカー。
芸能人をつけねらう低俗レポーター梨本に、マーシーを批判する権利は全くない。


# by kasakoblog | 2001-12-13 21:02 | マスコミ
2001年 12月 12日
マスコミより口コミ(ラーメン探訪)
四ッ谷にある「大山」。
店構えは古く、メインストリートから1本道を入ったところにあるので、
知らなければまず普通の人は入らないだろう。
「ここはうまい」と僕は会社の同僚に連れられてきたのだ。

辛ネギ味噌ラーメン800円を注文。
たっぷり入った辛ネギから出た汁が、ごまのたっぷり入ったまろやかな味噌スープと融合し、
とろりとした、辛くてまろやかなうまさをふんだんに醸し出している。

メンマにさくさくしたもやしに辛ネギといった具、
味のある麺ととろけるようなスープが完全に三位一体となり、
麺・スープ・具がそれぞれ分裂せずに、それが一つに調和し「ラ-メン」を形成しているから、
チャーシューや麺を食べているとか、スープを飲んでいるといったバラバラな感覚ではなく、
まるごと「ラーメン」を食べているような感覚になれた。

ほんのちょっとしか入っていなかったが、刻まれたチャーシューもうまかった。
強いて欲をいえば、もうちょい具にバリエーションが欲しかったかなというところだが、
それによって三位一体のバランスが崩れ、具だけが浮き上がってしまうのならこのままの方がよいだろう。

このところはずれラーメン屋ばかりで、ラーメン探訪するのになえていたが、
久々に文句なく「うまい」といえる店に出会えた。
最近思うが、うまい店は、雑誌やテレビよりはるかに口コミの方が信用できるなということだ。
マスコミより口コミの方が当たる確率が圧倒的に高い。


# by kasakoblog | 2001-12-12 21:03 | グルメ・ラーメン
2001年 12月 11日
最近のテレビ考現学
<1>
最近テレビを見ていて「これは!」と思うような注目CMがあった。
プレーステーションのゲーム「BUSIN」のCMである。
「最近のゲームってどうよ」 という問いかけに、
若い女の子が、 「映画みたいなゲームなんてやりたくない。想像力が死んじゃうから」
というセリフにすごく共感を覚えた。
というより、よくテレビCMでここまで大胆な発言できたよなと感心した。
それは、大ヒットゲーム「ファイナルファンタジー」批判と言えるからである。

ゲームの好きな人ならよくわかるだろう。
昨今のゲームコンピュータ技術の進化は、映像のリアリティさや迫力さばかりにかまけて、
ゲームを楽しむゲーム性をおろそかにしている。
映像や技術は稚拙にもかかわらず、昔やったゲームをした方がおもしろいのはこのためだ。
ちなみにこのCMの別バージョンでは、
「最近のゲーム、ゲームらしくないんだよな。大切なものを忘れてるんだよ」
と、そのゲーム性のなさについて明言している。

ゲームというのは「する」からおもしろいのであって「見る」ものではない。
ところが昨今のゲームは、ほんと映画みたいなゲームばかりが作られ、
プレーヤーが自分でプレーする自由度が狭められている。
決められたストーリーにそって、再生ボタンを押し続けながらビデオを見させられているような、 そんなゲームばかりが多い。
コンピュータ技術は進歩し、映像は凝ったものの、肝心のゲームとしてのおもしろさが薄れているのだろう。
これなんぞはデジタル技術に溺れたクリエーターの典型的なミスである。

<2>
そうそう、掲示板にて道路くんが指摘していたように、
雅子さんご出産時に、各局はこぞって雅子特番を組んだものの、
一番視聴率が高かったのがテレビ東京の通常枠の「グルメ紀行」番組だったという。
こんなことはもうとっくにわかっていることなのに、バカみたいに特番組んだ民放は、 この事実を真摯に受け止め、
大事なニュースをさしおいて、未だに雅子さんのお祝いニュースを放映するのはやめてもらいたいものだ。
つまらん、国民から興味がないとわかっていながらこのニュースをやる民放は、
政治家から金もらって、お祝いムードを演出することによって個人消費アップと景気の回復でも図っているのだろうか?

<3>
でもそんなことより、もっとも腹の立つ番組が、月曜21時フジテレビのドラマ「アンティーク」である。
何が腹立つかって、このドラマ中に無意味にやたらと使われるミスチルの曲オンパレードにだ。
ミスチルファンにはこのドラマはいっぱい曲が流れるので「たまらない」のではないかと、
何人もの人から「笠原さん、このドラマ見てます?」と言われたが、
こんなミスチルの品位を落とす番組を見るはずもなく、 それどころか即刻中止してほしいぐらいだ。

全然、曲とシーンがあってない。 しかもむやみやたらにかけまくり。 あんなの誰だって嫌になる。
ほんとフジテレビっていうのは、中身で勝負できないから、
タレント名やタイアップアーティストの名を借りて、はりぼて番組作り上げているのだな。
この厳しい時代に、そんなトリックで大衆が引っ掛かると思うのか? (意外に引っ掛かってたりして)

ということでほとんどテレビを見ることのないかさこが、気になった昨今の番組に意見してみました。
なお、ミスチルの名誉挽回?!のため、kasako-otakuの部屋のMr.Childrenの部屋を大幅更新しました!
ちなみに、例のごとく僕だけでなく、ミスチル好きの進之介にも文章を寄せてもらっています。
(っていうか、かさこさん、これが言いたいがための前ふりつぶやきだったのか?)


# by kasakoblog | 2001-12-11 21:04 | マスコミ
2001年 12月 10日
「海峡の光」辻仁成著
最近はまっているのが辻仁成である。
今話題の映画「冷静と情熱のあいだ」で江國香織と共著した作家だ。
その本を読んだのがきっかけで、他の作品も読んでみようと思った。

実はあまり辻仁成にはいいイメージを持っていなかった。
ロックバンドをする傍らで作家になったという経歴と、ちゃらちゃらしたその外見から、
実力はないがただ人気と話題のある作家なのだろうと思っていたからだ。

しかししかし、この「海峡の光」を読んでびっくり!
文章もうまいしテーマもおもしろいし、展開もおもしろい。
この本が芥川賞受賞作品だと読んだ後に知ったが、納得できる完成度。
それ以後、辻君の作品を次々と読んでいる。
「冷静と情熱のあいだ」のような、若い女性受けを狙った軽いノリの恋愛小説とは全く別人と思える、
完成度の高いこの作品を紹介したい。

函館の刑務所を舞台。
刑務官と犯罪者が、小学生時代のいじめられた子といじめた子の関係だったという18年ぶりの偶然の再会から、
その人間の本性ともいうべき歪められた心理を追っていく物語。
何か起きそうで何事も起こらない、そんな日々の緊張感が、
作り話的な小説っぽくなく、リアリティがあり、人間の内に潜む日常を見事に描き出した作品だ。
ただ最後に出所する時に刑務間を殴ってしまうという部分だけは安直すぎた感は残ったが、
全体としてのストーリー展開は実に緊張に満ち溢れて良かった。

監視する刑務官は、一生刑務所からは出られず、社会の模範として常に社会から監視されるという皮肉。
「受刑者たちが自分よりも広い世界で生きてきたような気がする」
刑務所という実に狭い社会で、一元的な社会規範を押しつける刑務官という仕事。
「彼らの狂気じみた人生の道程を聞くたびに、常識の中でしか世界を把握できない自分が、
彼らの何十分の一も世間に媚びた存在にしか思えないのはなぜなのか」
そんな社会への閉塞を感じる刑務官は、この街から抜け出したいという焦燥にかられる。

「私は一生刑務所の囲いの中で生きなければならないのか。
どこかに逃げるのではなく、この限られた街の中でパラレルに存在する、もう一つ別の世界を築きあげるのだ」
-そんな思いが水商売との女性との出会いとなる。

函館の青函連絡船の廃航。
連絡船から刑務官への転職。
かつて恋人だった女性の船での自殺。
様々な問題の種子はばらまかれていく、その緊張をはらんだストーリーが、先へ先へと読者を誘う。
160ページもの短編だが、実に人間模様をよく描き出した作品であるといえる。


# by kasakoblog | 2001-12-10 21:05 | 書評・映画評
2001年 12月 09日
いっせいのっ
二人の子供が、プールでどっちが息が長く続くか競争しようって、
せいので水の中に沈み込んだ。
どっちも苦しい。どっちも大変。
でもどっちも負けず嫌いで、どっちも頑固だから、
どっちも譲ろうとせず 我慢し無理して、苦しいのにいつまでも水の中にいる。
せっかく二人でプールに遊びにきたんだから、
そんな競争しなくっても、もっと楽しいことすればいいのに……

言ってしまったらもう引っ込みがつかなくなってしまって、
どっちかがまいったっていうまでは、どっちもやめようとしない。
もうそんなくだらない苦しい競争しないで、
「二人で楽しく遊ぼうよ」って、その一言がいえればそれで終わるのに。
どっちもその言葉を発することができない。

水の中で苦しそうに我慢している頑固な二人。
意地を張らないで、楽しいことしようよ!
だって人生って勝ち負けじゃないでしょ。
勝とうが負けようが、楽しく生きた方がいいにきまってるんだから。


# by kasakoblog | 2001-12-09 20:20
2001年 12月 08日
航空券が取れない?!
アメリカの航空機によるテロ事件以後、海外旅行者が格段に減少している。
アメリカやハワイやらが「安全だ」という根拠のない宣伝文句によって、
なんとか観光客の収入を取り戻そうというのはわかるが、 テロによる不安はアメリカ圏だけにとどまらなかったようだ。
新聞広告にはニュージーランドやタイといったテロとは直接的に影響のないはずの国まで、
「安全宣言」を出し、観光客回復にやっきになっている。
テロ事件での海外旅行不安は拡大しているのだ。

例年に比べ海外渡航者は激減。 旅行会社や航空会社は続々と倒産。
その一方で、沖縄以外の国内旅行は増え、年末年始に海外に行く人が減ったおかげで、
おせち料理が飛ぶように売れているという。

にもかかわらず、年末年始の航空券が未だに取れないのは一体どういうことなのか?
僕は1ヶ月前に、トルコ航空でトルコ経由ギリシア行きの航空券を旅行会社に申し込んだ。
その日に、アメリカでまた航空機墜落テロ(僕はこの報道規制は絶対にテロだと確信している)が起きた。
にもかかわらず、今だキャンセル待ち。
しかもこの前、旅行会社から取れる見込みが薄いので、 他の経由地でしかも日程を大幅にずらしてくれとの依頼がきた。
一体これはどういうことなのか?

どう考えてもおかしい。
このご時世、圧倒的に海外旅行客は減っている。
しかも例年より航空券代が安いわけではない。しっかり年末年始特別料金を加算しているのだ。
第一、トルコといえばイスラム圏にもかかわらずアメリカに加担した国で、決して安全とはいえない。
にもかかわらず航空券が取れないというのはどう考えてもおかしい。

多分これは随分前から不当に座席確保を行っている企業があるからだろう。(ツアー会社など)
個人客がどんなに前から年末年始やゴールデンウイークにチケットを取ろうとしても、
キャンセル待ちにされてしまうのはこのためだ。
チケットの入手経路が極めて不透明かつ不健全。
しかも「格安航空券」を売りにしている大手旅行会社(HISやマップツアー)の航空券代は、
まるで裏で口裏あわせたかのように、ぴったり同じなのだ。

業界の不健全さが、客がいないのにチケットが取れなかったり、料金が高いままになっているのだろう。
つまり健全な市場原理が働いていないのだ。
これまではそれでも海外旅行ブームで良かったかもしれない。
しかしテロが起きて、需要が激減している今、そんないい加減なことをやっている場合ではないはずだ。

市場原理を導入し、競争原理が働く、需給に応じた価格設定を行う環境をこの機にきちんと作って欲しい。
このままではテロによる航空機不安ではなく、不健全な業界不信が消費者の間に広まり、
ますます旅行会社ならびに航空会社は窮地に立たされるだろう。
公正取引委員会は独占禁止法違反の疑いで、この業界にメスを入れるべきだ。

果たして僕の航空券は取れるのだろうか?


# by kasakoblog | 2001-12-08 20:20 | 旅行記
2001年 12月 07日
はじめてのラブレター
はじめてラブレターを書いたのは、確か小学校3年生の時だった。
同級生で親友のかずお君と一緒に考えて書いた。
同じ社宅にいる1年生のしゅん君から同級生のまちこちゃん宛てのラブレターをかずお君が書き、
まちこちゃんからしゅん君宛てのラブレターを僕が書いた。
そう、はじめてラブレターを書いたのはいたずらだったのだ。

しゅん君をからかってやろうと、かずお君と作戦会議を練った。
何かおもしろいからかい方はないだろうかと思いついたのが、このラブレター作戦だった。
しゅん君宛てにまちこちゃんから好きですというラブレターを僕らが勝手につくってポストに入れる。
一方、まちこちゃん宛てにもしゅん君から好きですというラブレターをつくって同時にポストに入れる。
両方の手紙には、今日の16時に自転車小屋の裏で待ってますと書いておいた。

今日の16時になってその二人が会ってどうなるか、
僕とかずお君でこっそり見たらおもしろいだろうという、すばらしいアイディアなはずだった。
お互い、自分が書いてもいないラブレターを読んで勘違いして会いに来る。
こんな天才的ないたずらをよくぞ思いついたと、僕とかずお君で大喜びし、
自転車小屋の片隅に隠れて、じっと二人が現れるのを待っていた。

実に稚拙だった。
僕はまちこちゃんからしゅん君に宛てたラブレターを担当したわけだが、
女の子の筆跡っぽくするわけでもなく、太い黒のサインペンでレポート用紙にラブレターを書いた。
そしてかずお君も、全く同じペンと紙でしゅん君からまちこちゃん宛てにラブレターを書いた。

こんな稚拙なラブレターを二人が本気にするわけはなかった。
ポストに投函されたラブレターはあまりに唐突すぎたし、不自然すぎた。
結局このいたずらはすぐにばれ、お互いの両親から僕とかずお君の両親に話がいき、
僕ら二人は、しゅん君とまちこちゃんに謝りに行くという情けない結末で終わった。

あの時はすごく退屈だった。そこに魔が差した。
子供ながら完璧な計画だと思い込んでいた。
みっともない結末で終わった。
でもそんなことが僕の記念すべきはじめてのラブレターだったなんて、
今から考えれば、笑ってしまうような話だな。
子供って、不思議なことをするものだな・・・。


# by kasakoblog | 2001-12-07 20:22
2001年 12月 06日
メールで感染注意!!
メールが当たり前となった今の時代。
迷惑メールなど様々な問題を抱えながらも、その利便性ゆえに、
人々にとってなくてはならないものとなりつつある。

出会い系サイトなどの迷惑メールとは違うが、時々チェーンメールがまわってくる。
テレビ番組の鉄腕ダッシュをよそおったチェーンメールや、今はクリスマスメールなどがある。
チェーンメールが広がるのは、 「このメールを多くの人にまわしなさいよ」という仕掛けがおもしろいからである。
「なんだ、こんなの下らない」と捨てられてしまったらもうそれで終わり。
だからいろんな工夫を凝らして、できるだけ多くの人に広めようとさせる。

今、はやっているクリスマスメールは、12月という時期的なタイミングもよく、
また人間関係の希薄化された現代社会にとって、
「このメールを送って3人から返信がくるとクリスマスを幸せに過ごせる」だかなんだかという、
寂しい現代人にとってはすがりたいような仕掛けが凝らされているために、メールの出まわりが早い。

しかし無邪気にあちこちにチェーンメールをまわす行為は、
興味本位で出会い系サイトにアクセスしたがために犯罪にまきこまれてしまった事件と、
同様の危険をはらんでいる。

ネットという危険性を知らないからチェーンメールをまわせるのだ。
この無邪気にまわしているメールが、もしウイルスメールだったらどうなるか?

携帯電話の場合、入力してあった友達の電話番号がすべて消えてなくなるだろう。
パソコンの場合、保存してあるデータがウイルスによって食い潰されてしまうだろう。
そんなウイルスメールを 無邪気に友達にまわした当人は、その責任をどうとるつもりなのだろうか?

おもしろおかしくチェーンメールをまわすとどうなるか?
その危険性を考えれば、とるべき行動は決まっている。
親しい友達にまわすことなく、真っ先にゴミ箱に捨てるべきだ。

興味本位でチェーンメールに手を出すな!
チェーンメールをまわして世界中にウイルスを撒き散らしている行為は、
犯罪に処されるべき行動だということを、 ネット社会初心者のわたしたちは知るべきだろう。


# by kasakoblog | 2001-12-06 20:23 | ネット
2001年 12月 05日
しゃれこうべ
はかないこの世のひとときの住処をコウエンジに定めてから、早いもので1年が過ぎた。
風呂ナシアパートに住むと決めたとき、清水寺の舞台からまさに飛び降りる気分で、
何度も決めてしまったことを悔いたものだったが、
住めば都、慣れこそ物の道理なれ、 とはよくいったもので、
すっかりセントー生活が、 空を流れる雲のように、日常の中の当たり前として、 この心の中にしっかりと根付いていた。

冬はいい。
セントーにいきたいと思う内なる衝動が、暑い暑い夏に比べれば、はるかに減退するからだ。
30年前の冴えないアコギソングの詩の世界に出てきそうな、
寒い冬路を貧しい若いカップルが肩を寄せ合いセントーに向うなどという光景はすでになく、
この付近のジジババどもの夜の社交場となっている感がどうにも強い。
古代の人々はもののあわれを詩にして詠ったものだが、
冬のセントーに行くもののあわれとは、
「行きは寒いが、帰りはあたたかい」という単純な帰結へと落ちつくわけである。

さあて、今宵もいつとなく変わることなく、
いつもと同じ道を歩んで、ビニール袋片手にセントーへ向う。
身に吹きすさぶ冬の寒風を受けながら、ぽわあんと灯った昔ながらの遺物、セントーへと入っていく。

今時数字札付きの下駄箱など、洒落た居酒屋が懐古趣味でやっているだけで、
実用的な使用が見られるのはこのセントーぐらいなものだろう。
冬とはいえども風呂に入りに行く目的のためには靴は似合わない。
安サンダルを履いていくわけだが、そのサンダルを下駄箱に入れて鍵をかけるのが妙に情けない。
そんなミスマッチにいつも心の片隅に気を止めながら、
がらがら戸とみせかけた自動ドアを開いて、のれんをくくっぐって、
人生最大の別れ道、 人のさだめを決める最大の岐路、番台の前に立たされ、
本人の自由意志とは無関係に、男湯か女湯のどちらかに入らざるを得ないわけである。

僕は回数券を取り出した。
バスのではない。セントーの回数券だ。
1回400円のセントー回数券が1枚多くつく、 風呂なし生活者にとっては実にありがたい回数券を、
寒風の中、パジャマのポケットから落とさぬようにと強く握り締めたそのチケットを差し出したのであった。

ところが・・・である。
その大事な大事なチケットを提出したにもかかわらず、番台受け取ろうとしない。
無視してそのまま男湯へと入ろうとしたが、それでもその大事なチケットが番台の机の前に野ざらしになっている。
僕はそれに気を止め、番台に引き返してチケットを突き出そうとした。
すると・・・
寝ているである。
番台が居眠りをこいていたのである。

この瞬間、人は誰もが悪魔のささやきと戦わねばならない。
このチケットを再び自らのポケットに入れてしまっても、気づかれないのではないだろうか?
そうすれば、今宵の風呂はただ風呂ということになる。
しかしそれはれっきとした成人男子として食い逃げにあたる犯罪行為ではないだろうか、 と思い悩むのであった。

とはいうものの、現実問題、そんなに思い悩んでいる時間はない。
一瞬の判断で400円の得を選ぶか、良心の呵責を選ぶかを選択せねばらならない。

その間、約3秒、
僕はそっと番台から握り締めてぐちゃぐちゃになったチケットを、
再び自らのポケットにしまい込むと、 すぐさま男湯ののれんをくぐったのであった。

冷え切った体をでかでかとした湯舟につかるこの瞬間、 人は生きていることの喜びを感じる・・・
といいたいところだが、熱すぎてすぐに出てきてしまう。
いやあ、風呂なしサイコ-、カオナシサイコー、セントーサイコ-、セントチヒロサイコ-などと、
この世の極楽をはや20代にして悟るのであった。

ぽかぽかからだで気分も絶頂ながら、
男湯というのれんを再びくぐると、そこは再びこの世が待っていて、 急に現実世界へと引き戻される。
と同時に、ひょっとして番台のおばちゃん、いまはやりのチケットレスで入ったことにかんづくんやないか、
と、おそるおそるそそくさと娑婆へと戻るその背後から、
ふっと弱々しい声で「あ、あ、あありがとございました」という言葉が、
ぽかぽか陽気の僕の背中を突き刺したのであった。

「おばちゃん、すまん、わしセントーのキセルしおったわ」
なとといえるはずもなく、僕はそそくさと家路につくのであった。

「役人が規制してセントーの価格を一律にしてるからいけないんや」
そんな言い訳も、冬の夜空にはく自らの白い息とおなじく、ふっとはかなく消えてなくなっていく。
ぽっかぽっかのからだに冷たい風が染み渡る。
いやいや今日もいい日だったか、悪い日だったか・・・。

そんなセントーチケットをめぐるささやかな話題が尽きることのない、
昔ながらの高円寺純情商店街。


# by kasakoblog | 2001-12-05 20:24
2001年 12月 04日
モンゴルの魅力
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モンゴルHP探偵団より相互リンクの依頼がありました。
わずか1週間しか訪れていない国とはいえ、僕の訪れた国の中でも印象深いモンゴル。
その魅力について書いてみました。

限られた自然環境の中で、自然とともに自給自足して生きる人々の姿。
今、現代先進国に最も欠けている生き方のスタイルを持っているのがモンゴルであると思う。

草の海。果てしなく続く草地。
それは決して豊かな緑の地ではない。ちょぼちょぼと生えた草。
冬になれば氷点下の世界へと変わる。

馬や羊など、家畜をともにし、移動しながら、
限られた自然の中で生きていく知恵を身につけた、
地球上の中で「足るを知る」数少ない民族ではないだろうか。

先進国は自然を管理し、自然を人工環境に変え、自然を征服することによって生きようとしている。
それがかえって自然環境破壊を呼び、昨今の異常気象の常態化を招き、自らの首を絞めようとしている。

しかしモンゴルの遊牧民は自然に逆らわない。
人間が自然の一部であって、自然が人間の一部でないことを知っているからだ。
自然の有限性を知っている。自然を汚すことは、まわりまわって自らを汚すことになるのを知っている。

どこまでも広がる草の海はあまりに美しい。
しかし美しいとはいえ、決して恵まれた自然環境とはいえない。
そんな草の砂漠で、強く生きていく人間の姿に、僕は惹かれるのだと思う。
時にはしたたかで、時には滑稽で。

モンゴル・首都ウランバートルで「タケちゃんラーメン」を営むオーナーがこんなことを言った。
「学生が修学旅行に行くなら、絶対にモンゴルがいい。ゲルに泊まって、外で用を足して、きれいな星空を見上げる。
それが子供たちに大きな勉強になるんじゃないかな」

今、私たちが失ってしまったもの。
それがモンゴルにあるのではないだろうか。


# by kasakoblog | 2001-12-04 20:45 | 旅行記