音楽は必要ない?商業主義批判は負け犬の遠吠え
2009年 10月 24日
死にたいというより、消えてしまいたい」
と遺書に書いて、自殺した音楽プロデューサーがいた。
この遺書が、音楽の商業主義批判や、
最近の音楽作品批判につながるのかは不明だけど、
もしそうだとするなら、負け犬の遠吠えだと思う。
音楽関係者にもかかわらず「世の中が音楽を必要としなくなり」
というのは非常に残念な言葉だ。
この遺書の意図はともかく、
この人がどうだったかはさておき、
音楽にせよ文学にせよ映像にせよ、
商業主義批判や最近作品批判する人って結構多い。
売れているアーティストが、
商業主義批判をしたり、
最近の作品批判するなら説得力がある。
しかし売れていないアーティストが、
「最近の音楽はダメだ」とか、
「金儲けばかり考えている」とかいうと、急に説得力がうせ、
むしろ負け犬の遠吠えのように聞こえてしまうのは、
私だけだろうか?
商業主義批判って一見すると、
なんかもっともらしいというか、かっこいいわけです。
金になんかこびないみたいな。
でも自分の作品が評価されないことへの妬み、
自分の作品が売れないことへの妬みだとするなら、
所詮、批判している人自身が商業主義に溺れているということだろう。
商業主義を批判するなら、作品を売らなければいい。
趣味としてやればいいわけだし、
自分で勝手に作品つくればいい。
マスターベーションとして、
自分だけが気持ちよければ、それでいいわけだ。
ところが自分の作品は流通=商業主義させておいて、
それで売れなかった途端、
「最近の音楽は商業主義うんぬん」というのは、
売れないものの妬みであり、
結局は自分も作品が売れて金が欲しいということだろう。
たとえば音楽って、別に商業ベースにのるのらない関係なく、
やっている人はいっぱいいるわけです。
その人たちは、世の中に必要とされない=売れないから、
音楽をやめるとか自殺するとか、
そんなバカなことはしない。
自分が音楽を必要としていれば、
売れる売れないに関係なく、
音楽は毎日の空気のように、日々存在しているものだと思う。
確かに世の中は、いいものが売れるわけではないし、
悪いものが売れることもある。
でも絶対的な基準で良し悪しが判断できるものはともかく、
音楽や文学や映画や絵画や写真なんて、
所詮はその人の価値観の問題であって、
絶対的な良し悪しなんてないわけです。
文法めちゃくちゃ、言葉の使い方もおかしい、
でもおもしろくてみんなが欲しがる本は、
学問的には悪いものなのかもしれないけど、
世の中的にはいいものなのかもしれない。
クレヨンしんちゃんは親から見れば、
害悪作品そのものかもしれないけど、
子供から見れば超おもしろい作品かもしれない。
学問的なセオリーにのっとったものだけがいい、
古いものがよくて最近のものは全部ダメ、
金儲けしている作品はよくないとかって、
表現者=クリエイターとしては、失格の言葉だと思う。
売れたいのなら売れるよう営業努力をしなければならない。
売れたいのなら自己満足じゃなく、
時代にあったものを作らなければいけない。
金儲けも目的ではない、他人満足が目的ではない、
自分の納得のいく作品を作りたいだけなら、
他のやりかたを批判せず、黙々と作品作ればいいわけです。
自分に作品が作れない。自分の作品が売れない。
そういう自分の能力不足に起因する苛立ちから、
「今の作品はダメだ」とかって非常に情けない言葉だと思う。
音楽や文学にしてもそうだけど、
どんなにそれが素晴らしかったとしても、
お金になるかは別問題。
商業ベース優先なのか、自分の心の叫びを、
ただ作品にすることが第一の目的なのか、
きちんとわけて考えなくてはいけない。
もちろん理想は自分の作りたいものがお金にもなること。
しかし自分が求めているものと、
他人が求めているものは違うわけで、
それを時代のせいや社会のせいにしてはいけない。
たとえば多くのカメラマンがそうであるように、
食っていくための仕事と、自分が撮りたい作品とは、
わけている人も多い。
食っていくために自分の技術力を売って、
自分の作品意欲は満たされないかもしれないけど、
他人の満足を得られることでお金を得る。
そのお金を使って、自分が撮りたいものを撮り、
赤字だろうが関係なく、写真展をやったり、
自費で写真集を出したりする。
カメラマンに限った話ではないけど、
みんなそういうバランスのなかでやっている。
ミスターチルドレンでさえ、
ブレイクしたての頃は、
商業主義と自らの表現に苦悶しているわけです。
その中で苦しいけど、
時代の要請と自分の希望との折り合いをつけながら、
作品を生み出し、結果を出していき、
やがては時代の要請より、
自分たちの作りたいものが、
世に受け入れられるようになっていく。
なんでもかんでも商業主義がダメだとか、
最近の作品はダメだとか、
そういうことを言う人って信用ならない。
とかく日本人はブランド=レッテルに捉われすぎる。
死んだ途端、その人の作品はすべて素晴らしいとか、
有名だから素晴らしいとか、
ブランド物だから素晴らしいとか、
古いものはすべてよくて、最近のものはダメだとか。
「最近の若い者は・・・」と言い出したら終わりのように、
ひとくくりで判断するのは危険だと思う。
「昔は良かった。今はダメ」というのもよくある負け犬パターンだ。
過去に成功体験があるが、
今の仕事がうまくいっていない人がよく言う言葉だ。
今の仕事がうまくいっている人が、
「昔は良かった」というなら説得力はあるが。
わかりやすいレッテルを貼って、
作品の良し悪しを決めつけるのではなく、
古かろうが新しかろうが、
売れていようが売れていまいが、
有名だろうが無名だろうが、
自分の目で見ていいと思ったものを見出していく。
それが作品に対する真摯な態度だと思う。
また今はネットの登場で、
これまでのように、広く大衆に受けるよう、
浅く薄めたマス作品だけでなく、
極めて特異なオタク趣味的な人を満たす、
ニッチ作品が生き残る術ができてきた。
マスでもないニッチでもない、
中途半端な特徴のないものは、
音楽に限らずどんな表現でも、
生き残っていくのは難しいと思う。
※この日記は自殺した音楽家のすべてを否定するものでもなく、
商業主義批判をするような人一般を、
批判することを目的に書いたものです。
ただ音楽界に唾を吐き、自殺したこの音楽家には、
多額の借金があったとの報道もあり、
「結局は金かい!」とは思いましたが。
借金している人間の多くは、
自分の能力不足や努力不足や失敗を棚に上げ、
他人や社会や時代のせいにしたりする人が、
多い傾向にあることは、
サラ金時代の経験からよくわかる。
アイフル元社員の激白
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