豚は夜運べ
2009年 01月 15日

ギヒーギヒーギヒヒヒヒヒー
ベトナム北部山奥の少数民族の市場に響き渡る鳴き声。
市場でひもでつながれたままの犬が売られていたのを見て、
「ベトナムでも犬、売ってるんだ」と驚いたのだが、
(韓国の犬市場とはまた違った風情)
それより何より私の関心を引いたのは、
鳴き叫ぶ豚の鳴き声であった。
市場では、馬、牛、豚、鶏、犬などが、
生きたまま売られている。
豚以外は自分の運命を知ってか、
わりとおとなしくしているのだが、
豚に限ってはかなり往生際が悪い。
豚の買い手がつくと、袋に入れられるのだが、
袋をかぶせようとした瞬間、
豚がこの先の運命を悟ったのか、
鳴き叫び、暴れ回るのであった。
なんだかそんな光景を見て、
不謹慎にも「いいな」と思った。
“豚は夜運べ”
豚がわめく光景を見て真っ先に思い出したのが、
今から20年以上も前、
1983年に出版された藤原新也著「東京漂流」の、
はじめの章タイトルであった。
藤原新也が車のブレーキだと思いこんでいた音が、
夜中散歩した時に、実は豚の鳴き声であったことが判明した。
なぜ豚を夜に運ばなければならないのか。
藤原新也は、それについて、
「臭いものは日常の裏で秘密裏に進行させようというシステムが
暗黙のうちにできあがっている」と評した。
やや曲解ともいえなくもないが、
確かに私たちの生活のなかで、
スーパーには豚肉があふれているのに、
都市で生きている豚を見る機会はない。
「生が見えないと死が見えない」
日本社会が病んでいく原因を、
生死を隠し、社会をソフトケートしていったことにある、
と藤原新也は考えた。
だから「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」
という鮮烈な“キャッチコピー”のもと、
インドの川で人間の死肉を食らう写真を、
日本社会に解き放った時、
賛否両論、ものすごいインパクトがあったのだろう。
韓国の犬市場の写真を撮影していた時、
なかには店から「撮るな!」と声がかかることもあった。
犬を食べるなんて残酷だ。
野蛮な国だ。未開の国だ。
先進国からそう批判されてはいるものの、
昔からの食文化を容易に捨てられない、
韓国という“中途半端”な国の悩みだったに違いない。
日本人だって先進国の人間だって、
生きた動物を食らって生きている。
にもかかわらず、豚を食っても残酷とは言わず、犬を食うと残酷という。
なんともおかしな話だ。
人間様は生きた動物を食らって生きている。
でも生きた動物をぶっ殺して肉を食らっているという、
その過程を省かれた途端、
自分は高尚で上品な人間だと錯覚する。
犬は残酷と批判するのは、
日常で生きた姿を豚や牛より見るからだろう。
日本のある小学校で豚を飼い育て、
みんなで食べようという話だったが、
子どもたちが豚に情がうつり、
食べるか食べないかを子どもたちが決めるという話があり、
映画化されたらしい。
非常にいい教育だと思う。
我々は日々生き物をぶっ殺して生きていることを、
机上ではなく豚を目の前にして飼い育てることで知れば、
食のありがたみや生のありがたみ、
人間とはどのような生き物なのか、
実感できるのではないか。
かつての日本では今のベトナムのように、
家で鶏や牛、豚を飼っているところも多かったはず。
だからこそ食べ物のありがたみや、
育てることの大変さや、
「環境」などとほざかなくても、
生物の連鎖や限られた資源のなかで、
地球で生かされていることを、
知りやすかったのではないか。
今の世の中、「ぶっ殺す」過程が見えなくなった結果、
人を理由もなく簡単にぶっ殺してしまう人が増えたのではないか。
「ぶっ殺す」過程を知らなくなったために、
平気で食品を偽装するということが横行したんじゃないのか。
お上品になった現代人は見るべきだと思う。
生き物が売り買いされ、ぶっ殺されて商品になる過程を。
それが社会を良くするための教育だと思う。
単にゆとり教育で学力が下がったから、
また知識詰め込み学習を授業増で補いましょうって、
そんなことやっているから、
まともな人間が育たず、異常な犯罪が増え、
他者を思いやる心が育たず、まともな社会が成り立たない。
だからベトナムの市場で豚が鳴き叫ぶのを見て、「いいな」と思った。
フランスパンにはさんで食べた、おいしかったベーコンは、
豚のおかげで食えたんだなと。
大げさかもしれないけど、豚の鳴き声を聞くことから、
社会改革を始めた方がいいんじゃないかと私は思う。
バックハー市場写真(ベトナム)
http://www.kasako.com/0901vetot.files/09bachafoto3.html
韓国犬市場写真
http://www.kasako.com/0707koreadogfoto.html
