文章を書ける人=ライターが生き残る時代
2010年 04月 17日
これから社会環境が変わっても、
リストラされず生きていけそうで。
最近こんな言葉を複数の人から言われるようになった。
かなり意外な感じ。
なぜなら編集・広告業界のなかで、
ライターというのは、労多くして功少ない職種だからだ。
カメラマンは1時間程度の取材でギャラが3万円~5万円程度もらえるなら、
ライターは1時間程度の取材で1万円~3万円程度。
カメラマンの半分だ。
デザイナーはページ2~3万円程度もらえるなら、
ライターはページ5000円~1万5000円程度。
これまた半分以下だ。
※金額は内容や媒体などによって大きく変わるので、
かなりアバウトな数字です。
ライターは取材のなかでも“最下層”の職種として扱われ、
広告代理店>編集者>カメラマン>ライター
とこんな感じで扱われてきた。
一番、実作業をするのはライターにもかかわず、
仕事の流れでいくと最も下流に位置する下請けのため、
上位職種にギャラをピンはねされ、
少ないギャラで働かされてきた。
ところが最近、ライターの地位が向上している感じがする。
ネット化、デジタル化がどんどん進むことで、
中抜き業者の存在意義が問われ始めている。
そのため、広告代理店の人などは、
自分の仕事が将来もあるのか、
かなり危機感を抱いている人もいる。
そんななかで代理店が不要になっても、
やっぱり文章を書ける人は絶対にいるよね、
ということで、「ライターさんってすごいですよね」
「文章、書けるっていいですよね」という発言が出てくるようになった。
カメラマンも切実な問題がある。
デジタル化でよほど特殊な撮影でない限り、
ある程度なら誰でも撮影できるようになってしまったからだ。
そんな話をあるカメラマンがしていた。
「最近は編集者とかライターさん、
時にはクライアント自ら写真を撮影しちゃう。
しかもコンパクトデジカメで撮影したって、
結構いい写真が簡単に撮れちゃう。
カメラマンにとってはかなり厳しい時代になった」
フィルム時代はきちんとライティングしないといけなかったし、
機材を扱うのも特殊技術を要したが、
今やデジカメのオート機能で誰もがきれいに撮れてしまう。
無論、プロと素人はぜんぜん違うし、
構図や慣れの問題もあるので、
すぐにすぐプロのカメラマンがいらなくなるわけではないが、
小さな扱いの写真で、たいした写真でないのなら、
カメラマンを頼まずとも簡単に撮れるようになったのは、
間違いのない事実だ。
そんなわけで相対的にというべきか、
見直されたというべきか、
文章を書けるライターの評価が最近高まっているんだと思う。
雑誌や新聞がどんどん廃刊になって、
ネットに移行したとしても、
文章を書く人は必要なわけだ。
書籍が少なくなり電子書籍になったところで、
やはり書く人は必要なわけだ。
文章の何が難しいかって、
体系的に教えることができない職人芸に近いこと。
撮影技術やデザインももちろんそうなんだけど、
文章はなまじ誰でも書けるからこそ余計に難しい。
カメラの使い方がわからない人や、
デザインセンスがない人はいっぱいいても、
文章を書けない人というのはまずいない。
誰でも文章は書ける。
しかし仕事としての文章を書くとなると実に難しい。
人の話を聞いて書く取材にしても、
資料を調べて書き起こす取材にしても、
仕事となりうるクオリティのある文章というのは、
極めて職人芸的なのだ。
話をテープレコーダーにとり、
話し言葉をそのまま起すテープ起こしという作業は、
そう遠くない時期に機械ができるようになるだろう。
しかし取材から文章を書くというのは、
多くの場合、テープ起こしそのままでは使えない。
よほど理路整然と話をするうまい話し手でない限り、
テープ起こしの文章はそのまま文章として使えないからだ。
だから私なんかそもそもテープなんか取材時にとらないわけで、
あちこちに飛んだ話をいかにうまくまとめあげ、
わかりやすい文章にし、
話した順番ではなく、順番も再構成し、
足りないことは言ってないことでも補い、
読者が読みやすい文章に仕立てるかという作業が必要になる。
これは絶対に機械ではできない。
そうなるといかに場数をこなし、
いろんな文章を書いてきた経験があるかが重要になってくる。
単にうまいとかへたの問題ではなく、
媒体やクライアントに合わせた文章を書き、
期日までに仕上げるスピードも要求される。
今、社会のシステムが大きく変わる過渡期のなかで、
人がやらなくてもよい職種や仕事が増えている。
デジタル技術の発展で、プロとアマの差が縮まりつつある。
こうした中で簡単にはマネできない、
職人的技術を持っている人が、
生き残っていきやすくなっている。
それでなぜかライターの地位向上。
なんともおもしろい時代になってきた。