報道の仕方
2001年 01月 29日
山手線が止まっているとのニュースを会社で聞いた時、てっきりもう雪が降り始めたせいかと思ったが、
そうではなかったらしい。
この事故について翌朝の朝日新聞は、こう報道している。
「ホーム上には駅員はおらず、別室で監視するカメラもなかった」
「ホームの柱十二ヶ所に非常ボタンがあったが、今回は使われていなかった」
「駅によっては、線路への転落を感知して電車をストップさせる「検知マット」が整備してあるが、
新大久保駅はホームが直線との理由で未整備だった」
カップ酒を飲んでいて誤って転落した男性の死亡が、まるで駅の責任かのような報道の仕方である。
なんかおかしくないか?
酒を飲んで酔っ払って転落した人間のことまで駅の責任にされるならばたまらない。
そのうち「駅ではカップ酒を飲むなという注意がされていなかった」とか報道するようになるのではないか。
「自己責任」という言葉が叫ばれていながら、この報道のざまはなんだ?
小沢一郎の「日本改造計画」のプロローグにこんな話がある。
アメリカのグランドキャニオンには柵一つない。
もしこれが日本だったら、誰かが転落したら間違いなく柵を作らなかった行政の責任にされるだろう。
酒を飲んで転落した男性の死を、駅の管理体制の問題にすることよりも、
一人の酔っ払いのせいで、何万人という他の乗客が迷惑をこうむっていることを思い起こして欲しい。
酔っ払いの死に同情するのもおかしいし、ましてそれを駅の管理体制の不備に訴えるのもあまりにナンセンス。
大新聞がこんな報道の仕方しかできないから、
そごうの破綻や銀行の破綻を国民の税金で尻拭いするという責任転嫁が容易に行われてしまうのだろう。