秘峰の解禁
2001年 05月 19日
一つは「ネパールのマッターホルン」と呼ばれる名峰マチャプチャレの解禁ニュース。
もう一つはチベット仏教・ヒンズー教の聖山カイラスの解禁である。
共に今までは宗教上の理由から登山が禁止されていた場所。
山というのは人間にとっては自然のすごさを感じる身近な存在で、
そういったことから信仰の対象になりえるものである。
「神」とは「自然」である。
人が「神」に祈るという行為は、人間の力では左右できない「自然」に対して祈ることなのだ。
昔の人は実ははるかに今の人より知能が高かったと思われる。
それは今、理屈や理論を使ってやっとわかったことを、昔の人は感覚的に知っていたからだ。
だからこそネパールのマチャプチャレにしても、チベットのカイラスにしても登ることを禁止し、聖山として崇め奉ったのだ。
しかしその「自然(かみ)」の聖地を、アホな現代人が、利権や権力誇示のために犯そうとしている。
聖地として崇める人々は、登山解禁に猛烈な反対を寄せている。
カイラス山の登山解禁に対しては「人権侵害だ。アフガニスタン・バーミヤンの大仏爆破以上の暴挙だ」と語る人もいるほどだ。
しかし一部の信仰心を持った住人の意見などいとも簡単に踏みにじられ、解禁されようとしている。
人間が人間らしく生きるためには、神に成り代わりこの世の辺境・秘境を「暴くこと」ではなく、
このような聖地を守ることにあるのではないか?
この世に「辺境を作り出すこと」こそが人間の豊かさの源であると思うのだ。
今から50年近くも前、地元の反対を押し切ってマチャプチャレを登山したイギリス登山隊は、
頂上までわずか150mのところで悪天候に見舞われ退却したという。
それを非合理的なものと捉えるか、それとも違う何かと捉えるか。
自然(かみ)が作り出した秘境・辺境暴きなどというつまらぬ過ちを繰り返さないで欲しいと願うばかり。