罪人の意識
2002年 03月 13日
一つは、自分が悪いことだと知ってやっている確信犯。
もう一つは、自分は悪くないがたまたまそうなってしまったという無責任犯である。
たとえば、金を盗むという犯罪に対して、
悪いと知っていながら、盗んでやろうという人間と、
たまたま目の前にお金が忘れてあったので、とってきてしまったという人間では、
結果としての罪は同じでも、行動を取った過程意識では雲泥の差がある。
金を盗んだかどで捕まえられた時、
悪いと知ってやった人間は、悪いことして見つかったのだから捕まえられて当然だという罪の意識はある。
ところがはじめから盗もうとしたのではなく、たまたまそこに置いてあったから取ってきてしまったという人間には、
どこかで「僕は悪くない」という意識が潜んでいる。
どっちがたちが悪いかといえば、悪いと思っていない後者の方だ。
やれたまたまそこに置いてあったのが悪いだの、盗むつもりはなかっただの言い訳を連発し、
結果としての罪をまるで反省しない。
このたとえとして有名な話が、第二次世界大戦を起こしたニッポンとドイツの軍部の違いである。
ドイツ軍部には戦争を起こした主体的意識はあるが、日本の軍部は、
なにかまわりの状況に流されていつのまにか戦争に突入してしまったという、
戦争に対する主体的意識がない。
だからこそそれは敗戦になった時に、「悪いことをした」という自覚症状のあるドイツと、
「私たちは悪くない」というたちの悪い日本とに分かれたのだ。
いいことをしようが悪いことをしようが、僕は常に確信犯であり続けたいと思う。
自分が主体的に起こした行動であるという自覚さえあれば、それに伴った責任感は必ずついてくる。
主体的意識のない、なんでもかんでも言い訳野郎とは関わりたくないよな。
日本の軍部と同じで、あれだけアジアの人々を殺戮してきたのに、
罪の意識がないなんて最低の人間にはなりたくない。