病院から社会をのぞく
2002年 07月 02日
すぐ手術をしてくれる病院に移って入院することになりそうなので、
つぶやきかさこをいまのうちの更新しておきます。 退院までしばらくお待ちください。
かさこ
・神がくれたプレゼント
入院というのは、きっと突っ走り続けた僕に、
ちょっとこの辺で一休みしんしゃいという、神様の警告みたいなもんなんやな。
何事もスピード主義を貫き、せっかちで絶えられず、
何か生き急ぐようなスピードで生活を送っていた僕に、
「立ち止まりなさい、少しは」ということで、
普段の反動から一挙に入院というストップ状態になったんやろう。
やっぱり人間、どっかで帳尻を合わせられる。
考えてみれば今まで全く腰痛のなかった僕の、
突然の原因不明の腰痛というのもおかしな話で、
生き急ぐ僕に、神様が調整するためにブレーキをかけたんだな。
そういうことっていうのは人間よくある。
たとえば風邪をひくなんてこともその一つ。
病や怪我は、人間の最も本能的な防御反応なのだろう。
病や怪我にならない限り、現代のくだらん日常生活の濁流からは逃れることはできない。
ここから逃げなければと心のどこかで感じた時に、きっと病が降りかかるのだと思う。
それができないと、一挙に自殺とかになっちゃうから、
時々病になることは必要なんじゃないかと思う。
・サンクチュアリ(聖域)か監獄か
病棟では一切携帯電話が使えない。よってメールも使えない。
今時の社会でこんなことがあっていいのかと疑問に思うところだが、
このことは微妙なメリット・デメリットを生んでいる。
メリット
使えないおかげで、完全に日常生活から隔離され、仕事をせずに療養に専念できる。
携帯電話・メール、それにファックスがあれば、どこにいようが仕事ができてしまう。
使えないことによって、僕は仕事から離れることができたのだ。
cf:4月の2週間寝たきり生活は、自宅だったがために、休みだったにもかかわらず、
朝昼夜深夜を問わず、仕事をする羽目になり、療養も中途半端になりがちだった。
デメリット
唯一ホームページに「緊急入院の可能性」を告知しただけなので、
こちからか電話を掛けて入院したと言った人以外は、メールも返ってこないし、
携帯電話もつながらないしどうなったんだろうということになりかねない。
病院から動けないからこそ、せめてメールでも使えれば、
入院したことも伝えられるし、暇つぶしにもなる。
またネットが使えれば、ホームページも更新もできるだろうし、 オンラインゲームとかもやれるんだろうけど、
ようはそんなことよりおとなしく療養に専念しろってことだよな。
とはいうものの、外には一切出ることができず、
ベッド・病院に閉じ込められ、薬を注入されるだけの入院生活は、
ある意味、全く自由のない監獄に入れられているともいえるよな。
・沈没生活~旅との相似形~
長期旅行者がある一つの町に、またある一つの宿に、 何もすることなくとどまることを「沈没」という。
自分の意志は介在しないとはいえども、
入院患者は、ドミトリーに横たわる沈没旅行者と同じだなとふと思う。
快適といえば快適なのだ。
宿(病院)という日常から隔離された場所にかくまわれ、
ベッドという狭い自分世界の中に閉じこもれる。
かといって全く他人との関係がなくなるわけでもなく、 でもプレッシャーのかかる関係はほとんどない。
人間なんて不思議なもので、ずっとベッドにいると何時間でも眠れてしまうもので、
動かなければ動かないほど、ますます動くのが億劫になる。
「ここを1日も早く脱出するぞ」
という自分の強固な意志と行動がない限り、沈没生活からは脱することはできない・・・
病院での沈没生活はいつ終わるのか。
1日も早く退院したいという気持ちと同時に、
心のどこかでこの安寧な生活が続けばいいと願う気持ちがないわけではない。
・子供の時の入院と今
こうみえても僕は今まで一度も手術したことないし、
入院したのは小学校6年の時に、ぜんそくで何度か入院しただけなので、
本格的に入院するのははじめてである。
ぜもなぜか入院となるとある意味、楽しみだった。
怪我や病気をさておけば、学校(会社)に行かなくていいし、
家族が優しくいろいろなものを買ってきてくれたりするし、
さらには執筆活動&読書はいくらでもできるし・・・
日常から隔離された空間で起居するというのは、ある種の「旅」感覚なんだな。
思えば、6人部屋の1つのベッドを与えられ、そこに自分の空間を作っていくのは、
旅でドミトリーに泊まるのに似ている。
そんなわけでわくわくするのだが、
子供の時に入院したのとは違い、無邪気に入院生活を喜べない側面も多い。
何より心配なのは入院費である。
子供なら入院費の心配をする必要はないし、第一自分は働いていない。
しかし今は全く違う。
自分が入院している間は収入はないのに、
(会社に在籍していても1ヶ月入院では有休はなくなり、欠勤扱いになる)
1日入院が長くなればその分出費がかさむ。
いわば金食い虫なのである。
そういったことを考えると、子供の時のように、「学校が休める!」と無邪気には喜べない。
また子供の頃と違って、病院にいると様々な問題が透けてみえてきてしまう。
病院システムの問題や看護婦同士の人間関係など、
子供心には気付かなかったことが今は見えてしまう。
まあ僕なんかはそれを種に問題提起として書いていればいいわけだが・・・。
無邪気に入院を心のどこかで喜べる子供時代とはまったく違う。
それほど大人が入院することになるという社会的負担は多いということだな。
・食生活と悪癖
病院に入院して、がらりと変わるのが起床就寝時間と食生活である。
朝6時起床、夜21時消灯。
3度の食事は、少量ながらもバランスの取れたもの。
現代人が病気になるのは、不規則な生活と不健康な食生活が理由ではないか。
さらにそれを穴埋めするかのような、市販の強いだけで効果のない麻薬性の薬。
だからこそ現代人は抵抗力や自然治癒力がなく、
年中体がおかしく、花粉症やさまざまなアレルギーといった病気にかからねばならないのではないか。
そう思うと、入院して、規則正しい生活と栄養バランスの取れた食事さえすれば、
ほとんどの病気は治ってしまうのではないか。ふとそんな風に思う。
病院にいると、当然、わが悪癖である毎晩ポテトチップスは食えなくなるわけだが、
そんなにどうしても欲しいとは思わなくなる。ようは慣習性の成せる技なのだな。
あとは環境。
意志の弱い人間が、手を伸ばせば欲望を満たされる環境にあれば、
いともかんたんに欲望の堕落へと沈んでいってしまう。
しかしそういった環境さえなければ、意志の弱い人間は、その環境内で満足を見出すものなのだ。
そう思うと、今の世の中おそろしい世界である。
欲望が満ち溢れ、ほとんどの欲望は金で買え、
しかも欲望消費が高ければ高いほど、経済活動は活発になり「良し」とされる。
そんな環境の中で、たとえば規則正しい生活であるとか、規則正しい食生活であるとか、
自分で律することなど不可能に近い。
だから社会はおかしくなり、異常な犯罪が増えるのだ。
原始時代に戻れとはいわんが、やはり人間の欲望を満たすことを前提とした、
野放し欲望資本主義経済っていう限界が明らかに目に見えてきた。
「新世紀にふさわしい●●」とかよく喧伝されているが、
肝心要の経済システムは、未だに問題だらけの旧態依然のままだ。
いやむしろ、時代が進むにつれ、欲望資本主義が過剰化し、
人間のまっとうな感覚は完全に麻痺してしまっている。
僕の悪癖であるポテトチップスが、環境が変わればまったく欲望を発しない。
そんな単純な事実の積み重ねが実は社会に満ち溢れていて、
それが人間のエゴというものを露骨に引き出し、人間のタガを狂わせているのだ。
人間の歴史は、いかに人間のエゴや欲望を防ぐか。
それだけに注がれていたといっても過言ではない。
だからこそ国家や法や宗教が発達してきた。
にもかかわらず、20世紀、人間はついに開き直ってしまった。
「エゴや欲望を抑えようとするから間違っている。
エゴや欲望を商売にして、金でコントロールすればいいんだ」
それが資本主義の発明であった。
それから約1世紀。
人間の欲望が解放された社会は、得たいの知れぬ闇に包まれはじめている。
金で買えない欲望
たとえば快楽殺人であるとか、倒錯した性的趣味であるとか、
新興宗教でのあやしげな修業だとか、過剰な恋愛至上主義だとか、
タレントやミュージシャンへのカリスマ的依存とか、オタク的世界への依存だとか・・・
現代人は悲鳴をあげている。
助けてくれって。
この欲望の海の中から、行動指針となるような、自分を律する何かを欲して。
「自分探し」なんて言葉が流行るのも、規律のない欲望にまみれた社会だからこそ。
病院という一つの規律が存在する小さなコミュニティから、
シャバ世界をのぞけば、そのようなことが端的にわかる。
