坂本龍一絶賛ボーカリスト・五阿弥瑠奈(Ooze)インタビュー
2007年 11月 24日
営業・宣伝面での努力の重要性に着目し、
彼女にインタビューを申し込んだわけだが、
彼女が音楽を作るバックグラウンドになっているものに、
壮絶な経験があったことに、話を聞いて私は驚かされた。
拒食症がひどくなり、摂食障害で食べ物を受け付けず、
中学2年生の時に死にかけたというのである。
その経験こそが、彼女の表現手段としての音楽に対する、
深い、熱い想いの原点となっている。
彼女の音楽性、作品世界の背景には、
この壮絶な体験が大きく影響しているに違いない。
またこの経験によって、彼女はもともと志していた絵や小説ではなく、
音楽の道に進もうというきっかけにもなったという。
「小学校の頃はいたって健康な子どもでした。
勉強もできるしスポーツもできる、
手のかからない、よくできた子だと周囲に思われていました」
「できる子ども」という印象をくつがえしたくない。
だから彼女はいつも必死だった。
できる子どもにならなければならない。
できないことは許されないのではないか。
完璧にできないといけないという性格が災いし、
家庭の問題や交友関係の小さな問題、
思春期の体型の変化による自分に対する戸惑いなどが重なり、
いつしか自分を追い込んでいった彼女は、
日に日に食べることができなくなり、
どんどんやつれ、やせ細っていった。
身長が約150cmにもかかわらず、体重は29kg。
髪は抜け、骨と皮だけで、
歩くことすらできない状態にまでなってしまい、入院を余儀なくされた。
栄養失調状態のため、1日10時間以上は点滴を打たれて、
栄養を補給しないと生きていられない、寝たきり状態になった。
「早く学校に戻らないと勉強が遅れてしまう。
だから早く外に出たい。
治りたいけど、体が食事を受け付けない。
まるで監獄生活のような入院でした」
食べなければ治らないので、
体重が○kgにならなければテレビをみちゃいけないとか、
外に出られないとか、病院側は、食事をとらせるための工夫を凝らした。
中学2年生にして、重く苦しい入院生活。
食べたくないけど、食べなければ一生ここから出られないという気持ちが、
最終的には肉体に打ち勝ち、
1年かけてやっと普通の体重に戻ったという。
その頃、彼女の心のよりどころとなっていたのが、
絵を描くことと小説を書くこと。
自分の心の葛藤を絵や小説といった表現方法で発散することで、
なんとか心のバランスをとっていたのだろう。
退院後、なんとしてでも学校の遅れを取り戻したいという強い想い、
小学生時代のように何事も完璧にやらなければ気がすまない性格、
そこにこれだけの強烈な体験が加わり、
彼女の絵や文章の作品は中学生離れした完成度だった。
農林水産省の作文コンテスト「食にまつわるエッセイ」に応募した時、
「この文章は本当に中学生が書いたのか」と、
親に電話が掛かってきたほど素晴らしかったという。
小学校、中学校で作文コンテストや理科展、書道など、
賞状は30枚をゆうに超える。
英語スピーチでも関東で4位になり、退院後の成績でオール5をとるなど、
彼女の完璧主義はすさまじいものがあった。
小学生の頃、休みの日でも自分で学校のような時間割を作って、
勉強していたというほどなのだから、その徹底ぶりは「異常」といえたかもしれない。
拒食症でガイコツのようになり、入院して死にかけていた彼女が、
オール5をとったりコンテストに入賞したりすることは、
「いやがらせ」の対象になった。
物がなくなったり隠されたりということが相次いで行われるようになった。
彼女の人生を大きく変えたのが、絵本の紛失事件。
「美術の卒業制作でエッセイをそえた絵本を描いたのですが、
それが何者かの仕業でなくされてしまったんです。
魂を込めて描いた渾身の絵本が盗まれる。
しかもクラスの中に誰か犯人がいるはずなのに、
誰もそ知らぬふりして、表面上はやさしくしてくれる。
何も信じられなくなりそうな、悲しさに襲われました」
絵本がなくなった日。
家に帰って彼女は母親の前で号泣したのを今でも覚えているという。
自分の心のバランスをとってきた表現方法である絵や文章。
でも「そんな私の表現は、形あるもので限り、
なくなってしまい、奪われてしまうものなんだなと。
誰にも奪われない、盗まれないものを表現手段にしたい。
そこで高校に入ったらバンドをやろう。音楽をやろうと思ったんです。
歌は自分の肉体から出る形のないものだから、
誰にも盗むことも奪うこともできないと」
彼女はこの事件をきっかけに、絵筆が止まり、
その代わりに、詩や音楽へと、表現手段の中心を変えていったのである。
●3:模索:自分の歌がみつからない
高校に入ると音楽がさかんな埼玉県立浦和西高校に入学。
ミュージックアソシエイト部に所属し、
現在のバンドOozeの前身となる4人編成のバンド、「(有)ハロハロ企画」を結成。
なんと高校2年生の時に、
YAMAHAの「TEEN’S MUSIC FESTIVAL special 高校対抗バンド合戦」で、
グランプリを受賞したのだ。
「2つ上の学年も1つ上の学年もグランプリを受賞していたので、
どちらかというとグランプリをとって当たり前みたいな雰囲気はありました」
環境というのは実に大切だなと思う。
彼女は幼稚園から中学まで、クラシックピアノを習っていたが、
作曲やボーカルといった点では、
これといった教育を受けたり本格的な音楽活動はしていない。
もし音楽が遊び半分の学校の軽音楽部に入っていたら、
彼女の音楽的才能は花開いただろうか。
多くがプロ志向で、真剣に音楽をやり、そして実績も残している。
そんな学校の部活に入り、音楽漬けの生活を送ることで、
彼女は音楽への道を歩み始めたのである。
ちなみに優秀な指導者がいたのかと思いきや、
「部活の顧問はほとんどいないも同然」だったという。
音楽でめしを食うと本気でプロをめざす人に囲まれた環境が、
学生同士が切磋琢磨し合い、
誰から命令されるわけでもなく、自発的な行動を促し、
高校としてはグランプリ3年連続受賞という快挙を成し遂げたのだろう。
でもその頃、彼女は悩んでいた。
「自分の歌がみつからない」
本格的にはじめた音楽漬けの生活の中で、
彼女は自分の「歌探し」をはじめていた。
高校卒業後、進路を迷った。
バンド4人のうち2人は音楽とは別の道を志していた。
彼女自身にも迷いがあった。
これまでやってきた小説を書くことというフィールドもある。
でも最終的に彼女は音楽を選んだ。
「音楽には、詩もあるし、歌もあるし、ファッションやメイクであったり、
ライブでのパフォーマンスであったり、いろんな表現が含まれている、
総合芸術だと思いました。
それに歌は体そのもので表現するもの。
歌とは自分の生き様そのもの。
どういう人生を送ってきたかってことが表れると思います。
だから音楽の道をめざそうと思いました」
彼女は、海外で音楽を勉強しようか、音楽の専門学校に行こうか迷ったが、
「いろんなことを学んでおきたい。
それがすべて音楽にかえってくるから」
と考え、知識と感性を学びたいと思い、
一見遠回りと思える選択肢、大学を選ぶことにした。
しかし、大学生活当初はあまりうまくいかなかった。
期待ほどおもしろくない。授業をつまらなく感じてしまう自分。
みんな学生は遊んでばかりと見えてしまう。
多くの学生が大学にがっかりするような想いを、
彼女もまた味わったのである。
しかも授業のために、音楽をつくる時間だけが、
削りとられてしまうのだからたまらない。
高校を卒業したら家を出るという雰囲気があり、
大学1年生になって一人暮らしをはじめたものの、
彼女は不運続きに見舞われる。
はじめのアパートは欠陥住宅で体調が悪くなる。
やむなく引越しすると、今度は隣の人が変な人で、
変な手紙を書いてポストに投函するので、
家で歌を歌うことすらできなくなった。
仕方なく3軒目に引っ越したが、
暮らして1カ月して見たことも会ったこともない、
ストーカーにつきまとわれるはめに。
精神的な疲労から、彼女の肉体は、
かつて中学2年生の時に経験したような、
食べることに対する拒否反応が出て、日に日にやつれていった。
結果、2005年に実家に戻ってくることとなったのである。
そんな不運続きながらも「音楽だけは裏切らなかった」と彼女がいうように、
大学生になると「ハロハロ企画」のメンバーで、
音楽の道を志す有田氏と2人でOozeを結成。音楽活動を行っていた。
実家に戻って、精神的なストレスが減ったせいか、
大学機関紙のCD配布にはじまり、
染色家・浄土紀久子の染色展(池袋東武百貨店)の会場音楽担当およびライブ、
新進気鋭の3人の映画監督による「フィルム・メモワール」の中で、
菱沼康介監督作品で映画音楽を担当、
草野翔吾監督の映画「ションベンガールズ~in wonderful world~」で楽曲提供、
などなど、活発な活動を行うようになった。
運気が変わったのだろう。
内にこもっていたがゆえに、
「陰気」なものを引き寄せていた彼女が、
外に目を向け、自ら働きかけることをはじめた途端、
ポジティブなものが周囲を覆いだしたのである。
2006年12月につきあいはじめた、
今の彼氏の影響も大きかったという。
「彼の何事もダイレクトに素直に表現する、すごくピュアなあり方に、
とてもいい影響を受けて、
内にこもっていた自分が、さらに外に目を向けるようになったんです」
人との出会い。
これまで付き合ってきた人とは違う何か。
とことん向き合う、距離のない関係。
彼女にはない自由奔放さやストレートさを持つ彼との相性が、
彼女の心の奥底に眠っていた何かを目覚めさせたのだ。
異性のパートナーの存在によって、
自分だけの殻から抜け出すことができ、
自分と社会とを結びつけることができるようになる。
友人との出会いもそうだけど、
異性のパートナーといい出会いができるかどうかも、
人生を大きく左右する。
「今、子どもの頃の夢がどんどん実現しているんです。
たとえばオーケストラと競演したいとかも、
今年に実現することができました。
それは内面と外面がそろったから。
夢が実現し、うまくいっているのは、人との出会いがあったから。
だから怖がっていて内にこもってちゃいけない。
外に出なくっちゃって思っています。
結局はどちらも必要。バランスが大事なんだと思います」
そして、2007年5月、CDをレコード会社に配ることにより、
さらなる音楽的「実績」が次々と実現していくのである。
●4:音楽:心に響く「原始的な」音楽を
こうした経歴を持ち、
人生を歩んできた彼女が、どんな音楽を奏でようとしているのか。
彼女のバンドOozeのホームページで曲を試聴した時、
私は、正直とまどいを覚えた。
いわゆる普通のポップミュージックでもロックミュージックでもなかったからだ。
「北欧的とかよくいわれます」と紹介してあるように、
神秘的な、幻想的な、不思議な音楽だった。
「コンピュータの技術が進歩し、
機械で音楽が簡単につくれちゃう時代。
機械が歌を歌えちゃう時代。
だからこそ生身の人間でしか作れない音楽を、
肉体の叫びみたいなもの、魂の叫びみたいなもの、
人間の心を揺さぶるような、
根源的な原始的な音楽を作りたいと思っているんです」
彼女にとって音楽は、頭で考え、作るものではなく、
肉体から生み出される「衝動」のようなものと思っているようだ。
それは彼女が肉体的な壮絶な体験をしたからだろう。
その体験によって形ある絵や言葉ではなく、歌を選んだからだろう。
「音楽は肉体の叫び。歌うことは肉体の叫び。
常に肉体に向き合って、それで音楽をつむぎだしている。
肉体ってものは一人一人の人間にある、唯一のもの。
心を表現する入れ物が肉体。
だから肉体と向き合い、肉体を鍛えることで、心を表現できる。
ただ表現したいってだけじゃダメ。
肉体と向き合わなくっちゃ。
肉体は自分の力でデザインできる。
だから私はスポーツ選手のような、アスリートのような歌い手かもしれない。
自分の肉体と向き合って歌を歌ってみると、
『自分にはこんな声も出るんだ』って、発見なんかもあったりするんです」
彼女が人間としての「身体感」に目覚めたのは、
自分の肉体がやせ細り、死に掛けた体験があるからこそ。
人間の持つ身体性や、肉体の限界、その可能性について、
この年齢にもかかわらず、認識することができるんだと思う。
バーチャルリアルで肉体感が失われている現代社会の中で、
温室で育てられてきた「普通」の若者では、
このような身体感を持つのは難しいと思う。
彼女のホームページに興味深い文言がある。
「生きているということは、動いていること。
動いているということは、振動しているということ。
振動しているということは、響きということ。
響きということは、音ということ。」
死にかけた彼女がたどり着いた音楽という答えは、
まさに彼女自身にとって、生きるということに他ならないのだろう。
彼女は壮絶な病いの後遺症のせいか、
体調が悪いと、顔に地図のように、
ただれが表れたりしてしまうこともあったという。
体にコンプレックスを持ち続けている彼女。
でもそのコンプレックスと真正面に向き合い、
その肉体で歌をつむぎだすことで、音楽を奏で、
それによって彼女は生きている証をこの世に宣言する。
そして彼女は、肉体によって人は限定され、
日常生活の不便さや、精神的な負い目を感じたりしても、
心次第で、世界を変えられることに気づいたという。
「世界を幸せと感じるか、不幸と感じるか、
自分の捉え方次第で変えることができるってことを知りました。
いいことも悪いことも、結局、自分自身が選んだ結果。
自分が変われば世界も変わると思うんです。
「心ってとっても広いものだから。
心ってとっても重いものだから。
心は宇宙。
心はミクロかもしれないけど、宇宙のようにマクロなもので、
心は小さいかもしれないけど、心はどこまでも無限に広がっていける。
だから今は、自分の心に耳を傾けて、
自然体で音楽を奏でることができるようになりました」
彼女は現代の“シャーマン”なのではないか。
そんなことをふと思わずにはいられない、言葉の数々だった。
古来、女性は神性を帯び、祈りや音楽や踊りによって、
神を、自然をなだめ、社会を治めた。
ロジカルなものではなく、形あるものではなく、
人間の根源にある、目に見えないもの、
感覚的なものの力を作用させることによって。
彼女のめざす音楽とは、もしかしたら、
そうしたことに近いのではないかと、私は思った。
ただ、原始的、根源的な音楽をめざすゆえの、
彼女ならではの悩みもある。
歌詞である。
「音楽はメロディだから、言葉(歌詞)なんかつけなきゃいいのにって、
思っていたこともありました。
なぜ音(メロディ)に歌詞なんていう余計なものをつけるのかわからなかった。
日本語で歌詞をつけたら日本人にしかわからないって思っていた。
特に日本語は英語よりメロディにのりにくい傾向にあるので、歌詞をつけにくかった」
根源的、原始的、無国籍な音楽に歌詞はいらない。
言葉にならなくとも叫びのような歌があればいいとも思っていたが、
最近、その考えを少し変えたという。
「でも私が日本人で日本に住んでいる以上、
日本語で歌を歌った方が伝わりやすいから、
言葉は限定的なものだけど、
言葉(歌詞)をつけてあげることは、聞き手に対する優しさなのかなと。
『好き』という歌詞を入れれば、
それによって聞き手は音楽を限定的に捉えてしまうけど、
でもその絶対的瞬間があることで、
聞き手に音楽を伝えやすくすることができる」
「私の音楽は、今まで求められてきたPOPとは、
質の違うものになるかもしれないけど、多くの人に伝わる音楽を届けたい」
彼女は現代社会に合わせた根源的な音楽とは何かを模索しながら、
自分の心に耳を向け、音楽を奏で続けている……。
彼女からあふれる出る、さまざまな想いや経験は、
約4時間程度のインタビューでは語り尽くせない。
私の1万字あまりのインタビュー記事を読むことよりも、
彼女の音楽を生で一度聴いた方がいいんじゃないか。
●最後に:内から外へ:アドバイス
彼女のように内にこもっていたものの、
いろんなことをきっかけに外に発信していくことで、
実社会においてさまざまなチャンスをつかみとっていく人がいる。
私はそういう人たちをインタビュー記事で紹介することで、
内にこもってくだくだ言っている人が、
外に向かうきっかけにならないかと思い、
このようなニュータイプインタビューをしているわけだけど、
そういう人たちに彼女自身から何かアドバイスはできないかと聞いてみた。
「私は人に興味がなかった。社会に興味がなかった。
自分にコンプレックスがあるから自信がないし、
自分で精一杯だから他を見る余裕なんてない。
だから世界は閉じていたし、ネガティブな想いばかりで、
ずっと内にこもっていた。
でも、きっとみんなそういう時期があったんだなって。
死にたいって思っている人もいただろうし、
自分なんかくだらない存在だって思っている人もいるだろうし。
でも自分に目を向けてみれば、
自分がくだらなくないってことがわかるし、
必ず何か輝くものが見つかるはず。
それを信じて自分を見つめなおし、
そして外に向かって開いていってほしい。
自分が開ければ世界は開ける。
自分が外に出れば世界は開ける。
人との出会いによってはじめて、
閉じた自分の世界が広がっていく。
内なる心の魂の叫びを、外に向かって伝えていける。
内面と外面の両方が合わさった時、
はじめて『そろった!』って思った。
そこに何かが起こる。
まだ外に出ちゃいけないなんてことはない。
自分に完璧なんてないんだから」