ワールドカップサッカーに見る、個人と組織のあり方
2002年 08月 02日
なんだかもう遠い過去の出来事のようだ。
外国人ジャーナリストが「ワールドカップの後、日本に何が残るのか?それを見てみたい」
と言った言葉が印象的だ。
ワールドカップ後に残ったものといえば、莫大な税金をかけて作った使い道のない巨大スタジアムのみ・・・
ワールドカップが残したものは莫大な負の遺産を残しただけだったという評価は、
ワールドカップがはじまる前に出ていたのだろうけど。
まあ今日はそんな当然の話ではなく、サッカーの試合を見て、
単にブラジルすごいなとかベッカムかっこいいとかではなく、
今後の日本社会における個人と組織のあり方を考える上で、非常に示唆に富んだ決勝戦を考えてみたい。
ドイツ対ブラジル。
単純な構図をあてはめれば、組織のドイツVS個人のブラジルとの戦い。
結果は個人の勝利に終わった。
戦術的な戦いなどなくても、ロベルトカルロス・カフ-の両翼が素晴らしいクロスを上げ、
中央でかきまわすロナウジーニョがいて、
決定的チャンスを確実にものにできる2トップのリバウド・ロナウドがいる。
圧倒的個人能力さえあれば、戦術はいらないというよりそれが一つの戦術になりうるということだ。
つまりいくら能力の低い個人がよってたかって組織戦術を試みても、限界があるのだ。
ドイツは当初のブラジル優位の予想に反して、ボールを圧倒的に支配し、何度も攻撃のチャンスがあった。
でも彼らが決められなかったのは、ブラジルほどの個人能力を持った攻撃選手がいなかったからだ。
クローゼなど所詮、日本の稲本と同じまぐれあたり。
決勝トーナメントでは得点を決められず、ことごとく途中で変えられていたことを思えば、
ロナウドやリバウドとは格が違いすぎるということだ。
逆にあんなたいしたことのないドイツが決勝まで来れたのも、
カーンという圧倒的個人技能を持ったゴールキーパーがいたからに過ぎない。
彼がいなければドイツは予選すら勝てなかっただろう。
それだけ組織の力より個人の力が大きくものをいうということだ。
試合を解説した岡田武史前監督の言葉ー
「決勝戦を見て考えちゃいましたよ。指導者って何だろうって。
いくら組織力を高めようが、いくら戦術を立てようが、
圧倒的な個人技能を持ったロナウド・リバウド・ロナウジーニョの3人がいれば、
何も作戦など立てずとも、彼らだけで決定的なチャンスを作ってしまう。
この決勝戦は圧倒的な個人能力に長けた選手がいれば指導者って無意味なんじゃないかって思いました」
中田英寿の言葉ー
「このワールドカップで感じたことは、やっぱり最後は1対1の能力なんだなって。
どれだけ組織力を高めようが、最後の勝負は個人能力だと再認識した大会でした」
ゴールキーパー楢崎の言葉-
「カーンのような素晴らしい能力のあるキーパーがいれば、
決勝まで進めてしまう。ゴールキーパーの重要性を感じました」
中村俊輔がセリエAにいって、他の日本代表選手が呼ばれない。
(決勝トーナメントに進んだ日本代表選手で鈴木以外は誰も音沙汰なしだ)
それもまた一つの象徴的な出来事だ。
つまり日本代表メンバーは、中田や小野を抜かせば所詮組織として優れているだけであって、
海外にいって個人で勝負する能力はないということだ。
逆にトルシエが使いきれなかった圧倒的個人能力を持つ中村俊輔は、
代表に選ばれなかったにもかかわらずセリエAに行くことになったということは、
実に今後の日本サッカーを占う上で重要な出来事だったように思う。
それと呼応するように次期日本代表監督に、攻撃重視・個人能力重視のジーコ監督になったのは、
時代・社会の流れといえる。
これは単にサッカーだけでなく、サラリーマン社会でも、
組織の歯車となり何でも言うことを聞くたいして能力のない没個人ではなく、
個人技能に優れた一人一人が中心となる個性豊かな組織になっていくだろう。
そういう見方でワールドカップの試合を見れば、
日本でワールドカップをしてプラスになったことはあったのではないかと思える。