人気ブログランキング | 話題のタグを見る

大学は何のために存在するのか?

入試問題のネット投稿問題で、
各大学、不正対策強化するも対応には限界との声もある。

そりゃそうだ。
だってケータイじゃなく、
消しゴムとかシャーペンにしこんだ、
小型カメラとかかもしれないし、
メガネに何か仕込んだものかもしれないし。

そもそもそんなハイテクな技術など使わなくても、
もっと古典的な方法、
カンニングとか替え玉とかだってあり得るわけで、
それを大学側がすべて見破れるなんて、多分不可能だろう。

替え玉なんてと思うかもしれないが、
意外とこういう古典的な手法は使える。
海外みたいに国民総背番号制度で、
写真付きのIDがみんなあるわけじゃないから、
姑息な技術を使うより、
下手をすると替え玉って意外とバレない可能性もある。

不正を取り締まろう取り締まろうとするから、
限界があるし、不正が残ってしまう。
だから発想を転換し、大学のシステムを変えてしまえばいい。

試験に何でも持ち込ませるというのも発想の転換だが、
それよりも入学してから学力がないと、退学にする仕組みにすればいい。

不正がなくならないのは、
・学歴があると日本では未だにものすごい効力を発するから
・入学してしまえば、ある意味では“バカ”でも卒業できるから
だから不正をしてまで入学してしまえばいい、
という発想の人がいなくならない。

でももし大学に入学してから、
例えば前期の試験で、ネットに聞けば答えがわかる問題なんかじゃなく、
論文形式の問題にすれば、いかさまで入って、
授業をろくに受けない学生はまず解けないだろうし、
不正しようと思っても、単純な穴埋め問題や計算問題じゃないから限界がある。
それで試験に合格しなければ退学とかにすれば、
自然に学力がなくても不正で入学してしまえばいい、
という人はいなくなるだろう。

だって不正に入学しても卒業できないんだから。
授業料払うだけ損みたいな。

しかし、今、一体、大学の存在って、
何の意味があるのだろう?
一部の学部や大学はのぞいて、
多くの大学は入ってしまえばもう楽勝。
ろくに授業などでなくても、
勉強なんかしなくても、
単位はとれるし卒業はできる。

そんな大学という存在自体に意味があるのだろうか?
入試問題ネット投稿が行われるのに対応に限界があるというのは、
大学の存在意義自体が揺らいでいるからじゃないか。

未だにバカな大企業は学歴で人を判断する。
しかしもはやそんな時代じゃなくなってきた。
かつて高度成長の頃は、
与えられた課題(試験)に対して、
地道に努力しそれで結果を残す、
兵隊みたいな人材を欲していたから、
高学歴者=優秀な人材、体育会系=優秀な人材となってきたが、
今の時代、そんな人材は通用しなくなったのではないか。

グローバルな競争のなかで勝ち残るには、
帰国子女並みの外国語会話力(決して英文法の文法力なんかじゃない)を持ち、
上からの指示待ち人間ではなく、
自分から問題やビジネスチャンスを見い出し、
そこに積極果敢にチャレンジできる人間ではないか。
そういう人材を社会は求めているが、今の時代、
社会が求める人材と高学歴者がイコールではなくなっている。

そんなこというと必ずこういう人がいる。
「大学は企業の人材を育成するためにあるんじゃない」
じゃあ何のために大学が存在するのか。
何か学問を研究したい学者を養成する機関だというなら大学院がある。
じゃあ一部の大学や学部を除き、多くの大学が、
学問を研究したい学者を養成する機関として機能しているのか?
単に大学卒という学歴をプレゼントし、
学生にモラトリアムを与えるだけの役割しかないところが、
ほとんどじゃないのか。

社会に実践的に役立つ人材が必要なら、専門学校があればいい。
とするなら猫も杓子もみんな大学受験するというのはおかしいし、
金さえ払えば、少子化だから誰でも大学に入れるってのもおかしい。
でもそんなことまでして大学に入るのは、
未だに高卒だと社会で差別されるからに他ならない。

結局、大学も企業も社会も実態についていけないまま、
過去の古い悪習を踏襲したままになっている。
学歴至上主義。
だからおかしな不正が起きる。
どんだけ厳しく試験監督したって、
技術はますます高度になるわけで、
そんなのいたちごっこに過ぎない。

いつ潰れるかもわからない大企業に信仰し、
今後大幅な人員カットがあり得る公務員を志向する若者。
にもかかわらず社会常識はないから、
大学で社会常識の授業を履修しないといけない大学生。
一体、大学教育って何なんだろうって不思議に思う。
結局、どこの大学を卒業したかだけでの、
学歴社会という弊害が、
学問もろくにできない、社会常識もない、
ビジネスでも役に立たない若者で、
しかも将来不安ばかりで意欲すらない人材を、
量産するだけの役割しか担ってないんじゃないかとすらいえる。

いやもちろんそうじゃない大学や学部もあるだろう。
でもそんなの全体の1割か2割ぐらいじゃない?

これは極論だけど、例えば高校卒業したら、
男性は強制的に徴兵制で心と体を鍛え直し、
女性は看護・介護・料理などを徹底して覚えさせる、
学校に義務で入らなければならないとか、
なんかそのぐらい極端だけど思い切ったことしないと、
この国の人材はグローバルかつ、
サバイバルな時代に生き残っていけないんじゃないか。

いや別に戦争するためとか愛国心を植えつけるための、
強制徴兵制って意味じゃなく、
義務教育の総仕上げとして根性をたたき直し、
生活力、生命力を養うトレーニングが、
形骸化した学歴取得の大学なんかより、
今、必要なんじゃないかと思う。
それこそそこではケータイもパソコンもない、
無人島で生活させるとか。

私がことあるごとに学歴社会に対して、
強い口調で批判するには理由がある。
それは私自身が高学歴者なのに喪失感があるからだ。

高校は学区で一番の公立高校、川越高校に進学し、
大学は現役で私大でも最難関クラスの、
中央大学法学部に現役で合格した。

18年かけて懸命に勉強し、
高学歴さえ手に入れれば、将来の安定が約束された、
バラ色の人生が広がっていると思ったが、現実は違かった。

就職氷河期なんていわれて、
大企業が不景気を言い訳に採用を絞ったせいで、
中央大学法学部卒にもかかわらず、
サラ金のアイフルにしか入社できなかった。
もちろんそれは私自身の力のなさがあるわけだが、
かつてその学歴を持ってさえいれば、
何の苦労もなく大企業に入れたはずだ。
もうとっくに時代は学歴主義ではなくなっている。

しかも受験勉強をして役立ったと思える知識はほとんどない。
中央大学法学部に現役合格できる力を持ちながら、
インドに旅行に行ったら小学生のガキから、
「日本人は中高6年間も英語を勉強したのに、
ろくに英語を話せないのか」といわれて、
それに対して英語でまともに反論できなかった。
なんとふがいない英語力!

一体、私は何の勉強をしてきたのか?
英語は偏差値でいえば70ぐらいの学力があっても、
貧しいインドの小学生のガキの英語力にすら叶わない、
この恐ろしいほどの無力感。

受験勉強や学歴社会を全部否定するつもりはない。
それによって私は目標を立てたら、
それに向かって懸命に努力するという、
計画力、実行力、学習力は確かに身についた。

でもそれだけ?

そして今、カメラマンとして仕事をして問われるのは、
「中央大学法学部卒」なんて学歴じゃなく、
「どこかカメラ、専門学校とかで学んだことあんの?」
ということ。
社会で通用する力はもはや文系の大学では養われない。
そういう学歴に対する無力感、喪失感があるからこそ、
「大学って意味あんの?」
「意味のない入試制度や受験勉強なんて時代錯誤じゃない?」
「大学で勉強しなければ落第させる仕組みにすれないいんじゃない?」
って思うわけです。

世代や学部によると思うけど、
大学に行ったのに、高学歴だったのに、
たいして役に立たないという、
無力感や喪失感を覚えている人は多いように思う。

というかそんな落ち込んでいる暇はなく、
過去の“栄光”すら忘れて、
「今、自分は社会に対して何ができるのか?」
ということをシビアに問われ続け、
その中で答えを出していかないと、
金を稼いで生きてはいけない。
そこに受験勉強で学んだものが活きたことは、
残念ながらほとんどない。

ちなみに最近34人にリツイートされた、
「お勉強ができる高学歴者なのに仕事ができない人の特徴」
・一人で仕事を抱え込み、他人に仕事をふれない
・一人で悩んでばかりで、他人に聞こうとしない
・本で勉強することが中心で、人から仕事のやり方を学ぼうとしない
・何でもかんでも一人でやろうとして、結果、仕事が遅くなる
・社内の人間や外注先を使うのが下手
・与えられた問題を解くことは早いが、自ら問題提起できない
・無難な企画は出せても斬新な企画は出せない
は、まさに私にもあてはまることが多い。

でも今、私が頭でっかちな仕事の仕方をせずに済んでいるのは、
受験勉強で得た知識でもなく、大学で学んだ政治学や心理学や経済学でもなく、
マクドナルドでアルバイトをした経験が大きい。

今、私が効率よく仕事ができる力がついたのは、
ほとんどがマクドナルドでアルバイトしたおかげといっても過言ではない。
もしマクドナルドでの厳しい経験がなかったら、
私は今頃、
「お勉強ができる高学歴者なのに仕事ができない人」になっていたと思う。

つまり、大学に行くより、マックでアルバイトした方が、
社会に役立つ実践的な人間になる可能性が高いということ。

そういう時代に、果たして大学って一体何のためにあり、
一体、何のためのみんな入るんだろうってことを、
考え直す時期に来ているんじゃないか。

もはや高学歴偏重社会は終わっているし、
大卒でないといけないというのも、
すでに時代錯誤でナンセンスになっている。

一部の研究者や学者を目指す人だけの機関として、
大学制度を作り直し、
その他大勢多数は、大学じゃなく、
高卒後の社会訓練徴兵制度なのか、専門学校なのかで、
社会常識や生活力、職業技能を学んだ方が、
将来、路頭に迷う人は少なくて済むだろうし、
そういう人が増えれば、保守的な若者ばかりにならず、
経済を活性化させる人材となり、
国自体の活力の原動力になるのではないかと思う。

目先で入試の不正を叩いても限界がある。
それより存在意義を失った、
大学制度そのものを見直すべき時期なんじゃないか。
その根本的な問題が解決しない限り、
入試不正というのは永遠になくならないんじゃないだろうか。

※非常におもしろい記事
「京大入試ネット不正事件」に見る入試制度の限界
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110228-00000301-newsweek-int

by kasakoblog | 2011-03-01 22:56 | 生き方

好きを仕事にするセルフブランディング&ブログ術を教えるかさこ塾主宰。撮影と執筆をこなすカメラマン&ライター。個人活動紹介冊子=セルフマガジン編集者。心に残るメッセージソングライター。


by kasakoblog