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想像力なき「善意」は人を殺す

善意で他人を助けてあげるって素晴らしいことだ。
しかし善意で人に何か“してあげる”ことほど難しいものはない。
それが本当に相手のためになっているのかも微妙なところだ。
しかも何かをしてあげた方は、
自分が「善意でやってあげている」という、
まったく罪悪感なき、悪意なき意識でいるから、
余計にタチが悪い。

被災地支援のフェーズが大きく変わってきたと、
最近、感じるようになった。
それは小出しに発表される政府の恐ろしい発表。
NHK教育テレビの「ネットワークで作る放射能地図」で明らかになった、
震災直後から福島はもちろん関東にいたるまで、
広範囲にわたって放射性物質の放出されている事実。

今までは、地震・津波によって家をなくした人を、
緊急避難的に避難所に集めて、
そこで仮設住宅のめどがつくまで、
食事や物資を中心に支援をするというのが中心だった。
しかし放射能汚染が深刻になっている今、
通常の地震・津波被害の支援の仕方ではない、
支援の仕方が必要なのではと思うようになった。

反原発のコメントをしたためにドラマを降板させられ、
事務所もやめた俳優・山本太郎氏は、
高濃度汚染区域にもかかわらず、原発から30キロ圏外なために、
学校が開校してしまった郡山市や福島市など、
避難勧告の出ていない汚染区域のコドモタチを疎開させるプロジェクト、
「オペレーション・コドモタチ」に力を入れているという。
「オペレーション・コドモタチ」は、
“大人たちのエゴで子どもたちを無理心中させてはいけない”と訴え、
「勇気を出して疎開してみませんか」と呼び掛け、
北海道で4000戸受付があるといった避難先情報の発信などを行っている。

この活動がいいのかどうかは私にはまだわからない。
ただ私が思うのは、30km圏内だけでなく、
それ以外にも高濃度汚染されている地域の農産物を、
“風評被害だからかわいそう”と称して買ってあげたりとか、
そこで炊き出しや泥かきなんかの支援をすることは、
支援じゃなくて、地元の人たちの寿命を縮める行為に、
加担していることになるのではないかということだ。

30km圏外で困っている被災地があるから助けてあげよう!と、
高濃度汚染地域にもかかわらず、
その地域が元の生活ができるよう復旧支援してしまうことで、
そこにいる人たちがその場を避難する必要がなくなり、
結果、5年後、10年後にガンになって体調を悪化させてしまう。

もちろん福島原発周辺が危ないからといって、
日本中に原発があるわけで、
しかも日本中で地震が起きており、
日本で絶対に安全な避難場所はないが、
だからといって明らかに今、
危険な場所に居続けるというのは自殺行為だと思う。

いや、もう別のところでなんか暮らせない。
早死にしようがここを離れたくないという高齢者はそれでいい。
でもそうした大人たちのエゴのせいで、
子どもたちが犠牲になるのはどうなのかと。
チェルノブイリでは事故から5年後ぐらいから、
子どもの甲状腺ガンが急増したという。

政府の放射線量は地上18mというあり得ない地点で計り、
しかもあちこちで計っているわけではなく、
放射能パニックが起きないよう、
わざと低い値に見せかけているように思う。

しかし放射線量の恐ろしさは、
場所によってぜんぜん異なるということだ。
距離が近いから危なくて、
距離が遠いから安全ということはまったくない。
同じ福島市でも高いところと低いところがある。
同じ公園でも、地上1m地点が低くても、
木のベンチや砂場、草むらなどは異様に高いところもある。
こうした重大な汚染事実をスルーして、
今は何もないし、地元を離れるのは面倒だから、
そこにいたいという大人たちのために、
5年後になってわが子を死なせかねない事態になっている。

そしてボランティアたちは被災地に入り、
地元の大人たちのそうした声に耳を傾け、
「そうですよね、地元で暮らしたいですよね。
じゃあ暮らせるようにボランティアで泥かきしましょう」
といってそこで暮らせるようにしてしまう。
結果、大気だけでなく土壌や海水汚染、
さらには食物連鎖によって凝縮された高濃度汚染により、
じわじわ地元の人の首を絞めることに加担してしまう。
支援という名のもとに。

でももちろんボランティアした人にはそんな意識はない。
地元の人たちの意見を聞いて、
助けたいと思ったから助けただけだと。
こういう悪意なき善意、知識なき善意、
想像力なき善意ほど、恐ろしいものはない。
他人に何かをしてあげるのであれば、
その責任はきちんと持つべきだ。
言われたからやってあげました。
後は知りませんではどうしようもない。
それだったらはじめから何もしない方がまだマシだ。
なぜなら首を絞める行為に加担しないのだから。

想像力なき善意で被災地を苦しめたのは自粛だろう。
惨事が起きてのんきに旅行したり、
酒なんか飲んでいる場合じゃないという行動が、
被災地を余計に苦しめた。
でもやっている本人たちは善意だ。
想像力なき善意は人を“殺す”のだ。

もう読んだのは10年以上も前になるが、
写真家・作家、藤原新也氏の著作「印度動物記」に出てくる話が、
私には今もなお衝撃的に印象に残っている。

藤原新也氏がインドを旅している時に、
あきらかに栄養失調の子どもが、
何か食べるものは欲しいという仕草をした。
そこで、これで何か食べなさい、
という意味合いで財布から10パイサ硬貨を渡した。
すると子どもはニッケル硬貨をかじりだしてしまった、
というのだ。

また津波の危険性のある低地に、
高い堤防も作らず、住めるように支援するとか、
放射能汚染が深刻にもかかわらず、
復旧できるようにしてしまうとか、
それって飢えた子どもにニッケル硬貨を食べさせ、
殺してしまう行為になりかねないということ。

でも人は善意=ボランティアに酔いしれる。
自分はいいことしてる。
困っている人を助けてる。
何もしないやつよりはるかにいいことしてる。
でも何かをすることは、いい影響であれ悪い影響であれ、
相手の人生にかかわることだ。
かかわる以上、それなりの知識や責任が必要だ。
単に自己満足のためにいいことしたいのでは、
自分がしたいことを相手に押し付けるだけで、
もしくは単に相手のいいなりになって、
それをしてあげるだけで、
本当に相手のためになっているかはわからない。

2週間前、福島の原発30km圏外ぎりぎりの、
久ノ浜の町を訪れ、地元の人と話をした時、
泥かきの人数が足りないと話していた。

ならば私がネットでボランティアを募集し、
一緒に組織だって車なりバスなりでかけつければ、
被災地支援になるのではないかと思ったが、
すぐその考えは消え去った。

この場所を再び住めるようにすることが、
本当にこの人たちのためになるのだろうかと。
今は北西の風が多いから南にあるこの街は、
低い放射線量かもしれないが、
風向きが変われば30kmぐらいの距離だけに、
高濃度汚染になる可能性も十分あるんじゃないかと。

震災から2ヵ月以上が過ぎたが、
依然として原発の状況は予断を許さない。
許さないどころか、隠蔽されていたのか、
把握できないほど管理能力がなかったのか、
メルトダウンしたとか高濃度汚染されていたとか、
その当時に発表していたら、
間違いなくみんな逃げ出していたであろう、
とんでもない事実が小出しにされている。

そうした事実がわかった今、
今後の被災地支援、特に福島については、
今後さらなる放射能汚染が進む可能性があると考えた上で、
支援するなら何をすべきかを考えないと、
飢えた子どもに硬貨をあげて、
その人たちを殺すことになりかねないのではないかと思う。

しかし放射能はやっかいだ。
私がこうして危険性を書いたところで空騒ぎのような感じもする。
だってすぐに被害があるわけじゃないから。
結果がわかるのは5年後。
5年後になってあの時こうしておけばよかった、
あの時、余計な支援があったばかりに、
避難することができず地元にとどまったせいで、
わが子が死んでしまったなんてことになりかねない。

しかし警告している人たちがいっぱいいるし、
すでに避難した方がいいと行動を起している人もいる。
それを「何をおおげさな」とみるかどうか。
「想定外だった」という言い訳はもはや通用しない。

台風の前に緊急に政府がしなければいけないこと(武田邦彦氏のブログ)
http://takedanet.com/2011/05/post_ec82.html

by kasakoblog | 2011-05-29 21:09 | 東日本大震災・原発

好きを仕事にするセルフブランディング&ブログ術を教えるかさこ塾主宰。撮影と執筆をこなすカメラマン&ライター。個人活動紹介冊子=セルフマガジン編集者。心に残るメッセージソングライター。


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