本業こそ社会貢献~悩めるボランティアの実態
2011年 06月 20日
多くの被災者の方々に話を聞き、
被災者の方は自分の体験談を第三者に話したいのか、
積極的に話をしてくれて、
取材する側としては大変ありがたく、
記事にして徐々にアップしていく予定ですが、
被災者の方以上に話好きなのか、
そこに来ているボランティアの方々。
時に「この人、心のバランスを崩しているのではないか?」
「何か心に傷を負っているのではないか?」
というぐらい話しまくる人もいて、
もしかしたらボランティアは、
その心の傷を治してもらうために、
被災地に来ているのではないかと思う人もいる。
そういうタイプのボランティアの方々が、
いい意味でも悪い意味でもまじめ過ぎ、考え過ぎ、
それが行き過ぎているなと感じることも多い。
例えば故郷が被災地とか、
親族が被災地にいるとか、
ここに住んでいる人たちが、
被災地を助けなきゃって気持ちはよくわかる。
でも被災地に縁もゆかりもないのに、
経済的余裕があるわけでもなく、
仕事もしていて時間的余裕があるわけでもないのに、
あまりにもまじめ過ぎることから、
「家をなくして悲しみに暮れている人がいるのに、
私は普通の生活を送っていいのだろうか」と、
いろいろ無理して被災地に来ているボランティアの方も多い。
志は素晴らしいと思う。
この国難に困った人を助けるために、
義援金だけでなく休みを潰して被災地に行く、
というのは素晴らしいことだ。
しかしまじめ過ぎるゆえ、精神的にも肉体的にも、
金銭的にも、時間的にもしんどくなっているボランティアの人もいる。
私は家があるのにこの人たちは家がないのは、
ものすごい不幸のどん底にある人たちで、
その人たちに何もしないで見過ごすのは罪だみたいな、
強烈な思い込み。
まるで贖罪=善行を積んだり金品を出したりするなどの実際の行動によって、
自分の犯した罪や過失を償うことのために、
被災地にかけつけ困った人を助けなければならないという、
強迫観念的使命感から来ているせいか、心に余裕がない。
そういう人だから、被災地にかけつけても、
容易なことでは満足できない。
「私がボランティアしているのは何にも役立っていないんじゃないか」
とか「私の方が勉強させてもらって何も相手に与えられていない」とか。
でもそういう意識でやっている人って、
見ていて気の毒になる。
過度な謙遜は時にかえって迷惑ですらある。
被災者の方がこんな話をしていた。
「私は何もしてあげられなかったと嘆いている、
医療関係の若い女性ボランティアがいたけど、
そんなことはまったくない。
いてくれたおかげで救急車呼ばなくて済み、
助かったケースが何度もある。
ボランティアの方々にはほんとお世話になった。
ボランティアの存在がなかったら人生立ち直れなかった。
いてくれるだけ、来てくれるだけでも、
何かしてくれなくてもそれだけでもうれしい」と。
しかし被災者の方々はそう思っているのに、
「この人たちはかわいそうな人」「私は恵まれた人」という、
弱者ー強者の関係で捉えるから、
いてくれただけでも満足なんてことでは、
満足しないボランティアもいて、
とにかく目に見える成果がないと、
「私は何の役にも立てない」「だからもっと何かしなければ」
とどんどん追い詰めていったりして、
それで潰れていってしまうボランティアも多い。
大事なことは、
1:被災者=弱者、ボランティア=強者という、
上から目線で見ず、困っている人がいるから、
困っていることを助けてあげようぐらいのスタンスでのぞむ。
2:目に見える成果を求めない。
3:自分の心や金銭や時間の余裕のある範囲でやる。
4:本業(仕事)をおろそかにしない
の4つだと私は思っている。
普段の仕事で社会的やりがいを感じられていない人が、
こういうワナに陥りやすい。
私は毎日働いているけど、
社会にあまり役に立っていないんじゃないか。
そもそも仕事は社会的なやりがいで選んだわけではなく、
自分が生活するために金をもらえればいい、
ぐらいのスタンスでしか選んでいないから、
やりがいや社会貢献を感じられない。
そうした普段の仕事への贖罪もあいまって、
被災地が困っている今こそ、
自分の生活を犠牲にしてでも助けなきゃ、
何か目に見える成果をあげなくてはと焦る。
でもそれってダメな企業のCSR(社会貢献)活動みたいなもの。
本業ではあまり社会に役立たず、ぼろ儲けしているから、
その罪滅ぼしのために、
アフリカの子どもに援助しますとか、
川の清掃活動をしますとかに力を入れる。
えっ、その前にやるべきことあるんじゃないの?
社会貢献できる本業にしていくべきじゃないの?と。
別に直接被災者のためにならないように見えても、
社会に存在している多くの仕事は、
間接的に被災者や被災地のためになっている。
だからまず本業をしっかりやること。
それが社会貢献の第一歩であるはずで、
さらにそれでも余裕があれば、
この国難の事態に直接的支援を考えればいいと思う。
普段の仕事は誰の役に立っているかよくわからないとか、
儲けているけど社会にあまり必要な仕事ではないのかもしれないとか、
そんなことを思っている人が、
直接社会貢献していることを実感したくてボランティアに傾注する。
でもそれって順序がおかしいんじゃない?
本業で社会貢献すべきだし、
仕事で社会貢献していないという疑念があれば、
そんな仕事辞めて社会の役に立つ仕事をすべきことが先決だ。
仕事は自分の生活のために金をもらえればいい、
というわりきりだけでは続けにくくなる。
とかくこのような震災が起きるとなおのことだ。
だからまずボランティアの前に、
自分の仕事を見直す。
社会に役立つような仕事にしていくなり、
そうでないならそんな仕事辞めて転職すべきだ。
でないと仕事を続けていくモチベーションが続かない。
逆に言えば別に被災地に行ってボランティアすることが、
被災地支援なのではなく、
普段の仕事をいつも通り、いやいつも以上に、
しっかりやって社会を円滑に回すことも、
十分に被災地支援だと私は思う。
ボランティアしたから被災地支援だとか、
目に見える支援活動しないと役に立っていないとか、
そういう考え方はおかしいと思う。
私の場合、被災地に行くのはボランティアという意識ではなく、
本業である書く、撮るという“仕事”というスタンス。
別にどこかに発表してお金をもらえるあてがあるわけでもなく、
交通費などの経費は自腹だけど、
本業のスキルを通して被災地はもちろん、
社会の役に立てるんじゃないか。
それが後々自分の収入にもなるんじゃないかと思って、
被災地取材を行っているだけで、
何か特別善行なことをしているわけでもない。
だからまずは社会に役立つ本業(仕事)に力をいれ、
本業を通した社会貢献を考えることが1番。
さらに時間的にも経済的にも余裕があれば、
その範囲内でボランティアなどをすればいい。
まじめ過ぎ、考え過ぎボランティアが、
本業をおろそかにして、自分の生活を犠牲にして、
自分自身の生活が成り立たなくなってしまえば、
いわば“二次被災”みたいなもので、
社会にとってはマイナスだ。
まじめ過ぎるのは考えものだし、
ちゃんと自分がやるべき順序を考えて、
ボランティアに望めば、
「私は役に立っていない」なんて言葉は出てこないのではないかと思う。
そんなわけで私も本業(仕事)として、
継続的にできる範囲内での被災地取材をしていきたいと思います。