被災地という特殊空間
2011年 07月 12日
被災地には野次馬でもいいから、
日本に住んでいるなら、ぜひ一度、
訪れてみた方がいいとは思っているが、
何度も行くと、かなり精神的に“やられる”場合がある。
心のバランスをとるのが非常に難しいのだ。
被災地というのは日常では経験しない特殊状況にある。
不条理な天災と人災のせいで、
突如として家族や友人を失い、家を失い、車を失い、
“想定外”の人生に追いやられた人たちが多数いる。
もちろん彼らの誰もが、
「自分はこんな目にあうとは思わなかった」と考えている。
そう、これを読んでいる被災地以外の人のように。
一方、被災地以外の人がこのような状況を、
テレビではなく生で目の当たりにし、
被災者の人と直接話をしたりすれば、
冷静な目で見られなくはなる。
「かわいそう」「助けてあげなきゃ」
このぐらいの同情心なら、
「困った時はお互い様」の範囲内かもしれないが、
きまじめな人がこのような状況を見ると、
「私はのんきに普通の生活をしていていいのだろうか?」
「私には何も手伝うことなんかできない」
「こんなかわいそうな人たちがいるのに、
楽しいことしていいのだろうか」
といった風に自分を責める側に回ってしまう。
だから3.11直後、被災地のためになんかまったくならない、
“ヤシマ作戦”と称した寒い最中の超節電生活や、
(被災地の電力にはなんら関係はない)
ありとあらゆる旅行やイベントや飲み会をキャンセルした、
異常な“自粛”など、
きまじめな人が、かわいそうな人がいるのに、
自分たちが楽しんでいる場合じゃないと、
別に被災地、被災者にとって何の関係もないことを、
(自粛などは下手をすれば被災者を余計苦しめる場合も)
自分を正当化するための行動として行ってしまう。
そんなきまじめな人が、義援金や節電や自粛ぐらいじゃ、
自分がいたたまれなくなり、
ボランティアへと駆り立てられて被災地に赴く。
それはそれで素晴らしいことだが、
なんせきまじめだから、
「1回だけ行ってもほんのちょっとしか手伝えなかった」
「まだまだ困っている人がいるんだからまた行かなきゃ」
と何度もボランティア活動に駆り立てられることになる。
ある種のボランティア依存症だ。
いや、それで間違いなく被災地の役になっているのだからいい。
でも心のバランスを崩したまま、
依存するような形で続けていると、
自分の心や生活に支障を来たすようになる。
自分がそれで潰れてしまったら本末転倒だ。
私は被災地に何度も行っているが、
ボランティアではなく、
自分の興味に従った“野次馬根性”が動機となっているだけで、
ただその野次馬的な動機を記事や写真という形で、
記録にしていきそれが「仕事」につながっている面もあるので、
被災地に行って特別なことをしているという感覚はない。
ただそんな私でも2日間ぐらいいくと、
かなり精神的に“やられている”感覚はある。
特殊な状況下ゆえ、これまでオブラートに隠されていた、
社会の矛盾や人間の欲望やはかなさがむき出しなっているからだ。
こんな例えをしたら被災地の方に不謹慎と言われるかもしれないが、
ある種、インドに似ている。
むき出しの生死。むき出しの欲望。むき出しの矛盾。
そうしたとてつもなく大きな感情のオーラが充満しているがゆえに、
精神的にタフでないと、飲み込まれ、自分を失い、やられてしまう。
いやだからこそ5月の連休にインドに行こうと思っていたけど、
3・11が起きてから、インドよりも目の前にある“インド”かなとは思ったし、
3・11が起きたからこそ、
記者・カメラマンとして今やるべきことがあると思ったから、
被災地に何度も言っている反面、
自分の心のバランスをとるために、
“普通の旅行”も必要だと思い、
沖縄の竹富島に行ったり、
7月、8月も純粋な旅行に何度か出かける予定でもある。
一度も行ったことがない人はぜひ被災地に行くとよいが、
すでにもう何度も行っている人は、
自分の心のバランスを見て、
行き過ぎで自分に負担になっていないか、見直した方がいい。
被災者以外の人が被災地に行くと、
いい意味でも悪い意味でも現実逃避ができ、
社会に役立っているって実感を得られやすい。
しかしそこに渦巻く感情や出来事は美談ばかりではあり得ない。
その辺のバランス感覚を持つには、
相当精神的にタフでなくてはならないし、
ある種、冷徹ぐらいに突き放して客観的に見る目も必要。
困っている人を助けるのは当たり前だが、
自分の心のバランスを崩してまでやると、
本質が見えにくくなり、本末転倒な結果になりかねないと思う。
引き続き私も適度なインターバルを置いて、
でも忘れ去られようとしている被災地は、
継続的に追いかけていきたいと思います。
被災地レポ&写真
http://www.kasako.com/110311top.html