体育館で2ヵ月、教室で2ヵ月
2011年 07月 28日
「なかなか仮設住宅の抽選に当たらなくってね、
もう4ヵ月も避難所生活してます。
もうそろそろ、いくらなんでもね・・・」
2011年7月24日。
福島県南相馬市の避難所の1つ、原町二中には、
まだ100人前後の被災者が避難所生活をしている。
仮設住宅も建ち始めて当選して移る人を横目に見ながら、
抽選で外れた彼女たちは、教室の床にダンボールを敷き、
そこに布団を敷いて生活している。
「はじめの2ヵ月は新潟の体育館に避難していました。
原発が爆発しちゃったから。
新潟の避難所では大変よくしてくれました。
でもできることなら生まれ育ったふるさとに戻りたい。
南相馬市の放射線量が低くなっているというので、
ならばとふるさとの避難所に移ってきました」
この方の家は津波被害を受けたものの、
1m30cm程度の床上浸水で済んだという。
周囲の家はほぼ全壊で全滅。
でも家に戻ることはできない。
原発から20km圏内にあるからだ。
わが家は人が住むことが許されない土地に指定されてしまった。
「息子夫婦と孫はまだ新潟にいますよ」
放射線量が低くなったとはいえ、
避難所は原発から20~30km圏内。
緊急時避難準備区域、すなわちなんかあったらヤバイから逃げろ!
という極めて不安定な地域ゆえ、
子供や孫を連れてくるわけにもいかず、
自分ひとり、ふるさとに戻ってきた。
実際、7月21日には南相馬市の一部地域が放射線量の高い、
ホットスポットになっているため、
4地区59世帯が「特定避難勧奨地点」に指定された。
「仮設住宅に当たればねえ~」
といっても仮設住宅だって原発から約30~40kmの距離にある。
家には帰れない。
避難所を転々。
仮設住宅の抽選に当たったとしても、
所詮は「仮設」。いつかどこかに移り住まなければならない。
わが家に戻れない。
避難生活も時期によっては、
放射線量の影響でどうなるかもわからない。
そんな途方もない先の見えない未来のなかで、
同じ境遇の人たちと身を寄せ合って、教室で暮らしている。
今日はお祭り。
原発20km圏内の町のお祭りだが、
今年はそこでできないので、
避難所で代わりに祭りをすることになった。
半月前から祭りの準備を手伝った。
「もう私は年寄りだから写真に写らなくてもいいよ」
と恥ずかしがっていたおばあちゃんが、
慣れない手つきでニンテンドーDSを取り出した。
「これで今日のお祭りの写真撮ろうと思って」
DSでの写真の撮り方を教えてあげたら喜ばれた。
おばあちゃん、いい写真、撮れたかな。
仮設の抽選当たったかな。
先が見えない生活の中で、
ほんの一時だけかもしれないけれど、
祭りによって心に小さな明かりを灯すことができたら、
それはそれで素晴らしいこと。
難しいことかもしれないけれど。
被災地レポ&写真
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