原発10kmの被災企業社長と世界的に有名な建築家のコラボ支援~南相馬レポート
2011年 08月 05日
本社、工場が福島第一原発から約10kmに・・・・・・。
私を福島県南相馬市の避難所に連れて行ってくれたのは、
建材販売を行う株式会社ADワールドの平澤潤子社長。
そこの会社に勤める社員の方とマイミクだったことから、
取材同行の機会を得た。
なんとその会社、本社、工場が原発10km圏内の場所にある。
建物は幸いにして津波被害がなく、
社員の人的被害はなかったものの、
多分もうこの場所で営業できることはないだろう。
不運としかいいようがない。
地震・津波被害なら防ぎようのない自然災害であきらめもつくだろうが、
被害がほとんどないのに、
もはや数十年先まで、原発のせいで、
本社や工場のあった場所に立ち入れないという悲劇。
平澤潤子社長をはじめ、営業部隊は東京にあったものの、
原発被災から今後、どのように立ち直り、
新たな本社、工場機能を移転するかなど、
実に悩ましい問題なはずだ。
「急に枝野官房長官が原発20km圏内の立入禁止を発表した時は驚いた。
あわてて本店、工場から必要な帳簿類を運び出した」
と平澤潤子社長は言う。
原発爆発から会社の被災で苦しい状況に直面していながら、
平澤潤子社長は毎週のように、
本店のあった南相馬市の避難所支援に赴いていた。
被災した社員のなかに避難所生活をしていたものもいたから、
というのも理由の1つだが、
もはやそうした社内の事情を越えて、
悲惨な避難所の状況を見て、
「私たちが取り扱っている建材を活かした支援ができるのではないか」
というのが足を運ぶモチベーションになっている。
「建材を扱う私たちプロから見たら、
避難所での間仕切りが、荷物を扱うダンボールなんて信じられない。
震災直後なら致し方がないかもしれないが、
長く生活をする上で、ダンボールに使われる接着剤は、
人間の体にあまりよくない。
有害な成分がある揮発性化学物質が使われていることから、
シックハウス症候群(住居内での室内空気汚染による健康障害)
になりかねいと思ったのです」
テレビに映し出される避難所の様子を見ながら、
間仕切りをどうにかしなければならないと思っていた矢先に、
大阪市で、震災で被災した人工透析患者やその家族1000人受け入れるため、
展示会スペース、インテックス大阪6号館 に、
一時避難所を開設するとのニュースが入った。
間仕切りが必要になるだろう。
ならばうちで扱っている自然素材のハーベストパネルを使ってほしい。
そこで大阪市に電話し、提供を申し出て、
2500枚のパネルを納品した。
それがすべての始まりだった。
インテックス大阪の一時避難所が閉鎖になった5月、
不要になったそのパネルを、
大阪市長から南相馬市の避難所に寄贈するので、
使ってもらえないかと連絡があり、平澤さんはその橋渡し役となった。
健康被害が少なく、人間らしい生活をするための間仕切りを、
避難所生活している方にも利用してもらえるなら、
こんな素晴らしいことはない。
4月に避難所を訪れた時、平澤さんは、
「ここは生き地獄だ」と思ったという。
震災から1カ月以上が過ぎてもこんなひどい状態。
なんとかしなければと自分たちができる支援を考え始めた。
ADワールドと何度か仕事をしていた建築家の高崎正治氏も、
被災地の避難所の様子を見て、平澤社長と同じことを思っていた。
「ダンボールはひどい。
そこからなんとかしなければならない。
こんな環境で心の復旧・復興なんかできるわけがない」
強い憤りを持って避難所の映像を見ていた高崎氏は、
避難所生活でも人間の尊厳を与えられることができる空間、
「こころシェルター」構想を思いついた。
「ダンボールではないちゃんとした間仕切りと畳。
小さな茶室的シェルターを避難所の体育館に、
まるで町のように50個とか100個とか作れないだろうか?」
何度も何度も図面を描き、そして模型を作っては作り直した。
高崎氏が苦労したのは、
プライバシーとコミュニティのバランスだ。
「プライバシーを重視してコミュニティを遮断してしまうような、
閉鎖空間ではまずい。
かといってコミュニティを重視しすぎると、
集団生活の中で心が落ち着ける拠り所がなくなってしまう。
なんとかそのバランスがいい空間の部屋を作らねば」
そんな一心で何度も何度も図面や模型をやり直していたのだ。
こうした中、ADワールドの平澤社長と同じ想いを共有していることから意気投合。
何度か一緒に東京から避難所に行くようになった。
体育館に「こころシェルター」を数十個置くというのは、
金銭面からも難しいし、受け入れ側も難しそうだ。
避難所生活を送る人たちが、一人になれる場所であり、
かつ茶室的に何人かで集まって和気あいあいくつろげる場所として、
避難所に1つか2つ「こころシェルター」を置けないだろうかと考えた。
しかし1つ置くだけでも自治体、行政の壁は厚い。
「行政は基本的に管理しやすい建物や設計をしたがる傾向がある。
それに物質的な面での支援はわかりやすいので受け入れてくれるが、
心のケアを支援するようなものは基本的にタッチしないし、
理解を示してくれにくい」と高崎氏は嘆く。
しかし南相馬の避難所の1つ、
原町二中の責任者で市の職員である星さんの理解などもあり、
高崎氏と平澤社長の協働プロジェクトである、
「こころシェルター」を6月初旬に設置。
さらにもっと開放的な空間になった、
「こころシェルター」第二弾を7月下旬に設置した。
「こころシェルターの第一弾は心の拠り所となる私の空間だったが、
第二弾は、みんなの日常生活の拠点として、
交流と共有の空間 「こころシェルター・コミュニティー」を被災者と共に造り、
無事に設置することができた。
避難所のみなさんが喜んでくれて大変うれしかった。
本当にこの仕事をしてよかったと心から思った」と高崎氏。
「津波被害はもちろん、
先の見えない原発問題に苦しむ南相馬の人たちに、
今、最も必要なのは心のケア。
『こころシェルター』が何かのきっかけになってくれれば」と平澤社長。
「避難所にいる方には『絶望』と『希望』の2つの心がある。
厳しい避難所生活の中で、
少しでも人間の尊厳を取り戻す空間に身を置いてほしい」と高崎氏。
設計は高崎氏が行い、
建材はADワールドが提供してできた「こころシェルター」は、
避難所のダンボールのひどさを見て、
「何かをしなくては」と思った1人の建築家の結晶だった。
原発被災地の苦悩は計り知れない。
それは原発圏内に本社、工場があった、
平澤社長が身を持って実感している。
でもだからといって何もしないで、
手をこまねいているわけにはいかない。
自分たちが得意とする分野で、
できることから始めることで、
被災者の心の中にある「絶望」と「希望」の中で、
少しでも「希望」を多くしていくことが、
苦難を乗り越え、脱原発後の新たな社会デザインを描く、
原動力となるのではないか。
ゴールは遠くとも、生きていくために今、何をするか。何ができるか。
その積み重ねが絶望を乗り越える唯一の希望であると感じた。
※平澤社長が高崎氏と南相馬市に行く際、
私に取材同行の機会を与えてくれたのは、
南相馬の現状をもっと世に知って欲しいという思いがあったから。
「南相馬市で津波で全壊した家屋は4682戸。
マスコミの報道が集中している南三陸町は3167戸です。
南三陸町は連日報道されるおかげで、
大勢の支援やボランティアが集まるが、
南相馬は原発から20~30kmと近いせいで、
放射線量が今は低いにもかかわらず、
大手マスコミは寄り付かないため、
ほとんど報道されることなく、南相馬市の状況や苦悩が知られていない」
「ただちに人体に影響がない」といったコメントを垂れ流し、
「福島原発はメルトダウンしてない」という、
電力会社の片棒担ぎをして、
最近では中国の高速鉄道事故を、
まるで鬼の首でもとったかのように、
自慢げに批判する日本の大手マスコミだが、
誰よりも放射能を恐がっているのか、
“フクシマ”に対する腰がひけた状況であるため、
福島は原発報道以外、被災者や避難所の報道が、
岩手や宮城に比べて明らかに少ないなか、
私のようなフリーの立場で動けるメディアの人間が、
少しでもこうしたメディア偏重をなくして、
福島の被災地状況についても、
多くの人に知ってもらえたらなと思い、被災地取材を行っています。
今週末も福島に取材に行きます。
<関連リンク>
ADワールド
http://www.ad-world.co.jp/
高崎正治氏ホームページ
http://www.takasaki-architects.co.jp/
こころシェルター(フェイスブック)
http://www.facebook.com/kokoro.shelter
・被災地レポ&写真
http://www.kasako.com/110311top.html