寄付より融資・投資・消費~金融的モノの見方で支援を考える
2011年 11月 18日
自立支援や自己責任じゃなくても
支援している行動だけで十分立派じゃないのか?」
とある人から言われて、私はすごくギャップを感じていた。
私はボランティアに対して厳しくなんかない。
むしろなぜこんなにも目先の感情論でしか考えられない、
短期的思考の温情・自己満足ボランティアがいるのだろうかと、
不思議に思っていた。
同じボランティアでも自立支援を考えている方が、
こんなことを言っていたのが興味深かった。
「私は自営で商売をしているから、
余計なことしたらだめだとか自立支援が大事とかがわかる。
でもそうじゃない人は、
自立支援という意味がわからないのかもしれない」
なるほど、確かに商売を自分でしているかしていないか、
というのは感覚の大きな違いかもしれない。
あとなぜ私が自立支援にこだわる意見を、
再三、述べているのだろうと考えた時、3つの要因が浮かんだ。
1:サラ金で働いた経験があり、
物や金をあげてしまうことで、
人間が堕落してしまう怖さを知っているから。
2:普段、金融機関や経営コンサルタントなどを、
取材することが多く、
リスクに見合ったリターンがあるのか、
人・物・金をそこに注ぎ込んで、
そこは再生できる見込みがあるのかどうかを、
一般の人よりシビアに考える業界に身を置いていて、
それが当たり前だと思っているから。
3:海外で子供たちにお金や物をせがまれ、
あげてしまうと大変なことになることを知っているから。
自立支援論に対して批判的な人って、
金融的な人や物の見方がまったくない。
極論すれば性善説か性悪説か。
金融は徹底した性悪説に基づいている。
最悪の事態を想定する。
甘い言葉には騙されない。
人間の醜い部分までもよくわかっている。
だから金融的な見方が身についている人は、
お金や物資をいつまでもなんでもかんでも、
無償であげてしまうのではなく、
自立してお金を稼いでお金を返してもらえるぐらいになるよう、
生きた資金を融資・投資し、
お金や物を渡した方にも責任感や自発心を持たせ、
依存させないようにする。
でないと、またお金の無心に来てしまうからだ。
またそこにお金や物資や人を投入するなら、
シビアな言い方だが復興できる見込みのある土地にはするが、
復興できる見込みのない土地にはムダだからしない。
下手な同情心で、元から過疎化していた地域や、
放射能汚染がひどい地域に、
人・物・金を注ぎ込んだりはしない。
なぜならムダになってしまうからだ。
そんなムダ金使う暇があったら、
復興できる見込みのあるところに資金を注ぎ込む。
それが再生・復興であり活性化につがなる。
サラ金で働いていた時には、
いかに人が物欲や金欲によって、
人生を狂わせてしまうか。
特に「濡れ手で粟」=何も苦労せずにお金を儲けてしまうと、
多くの場合、人生を狂わせてしまうケースを見てきているので、
なんでもかんでも「あげる」というのは、
やっぱり根本的にどこかで違うし、
道を誤らせることになると思っているからだ。
以前、被災者のインタビューをしていた時のこと。
仕事を失い、避難所から借上住宅に移った、
30~40歳ぐらいの男性が、
他の被災者とこんな話をしていた。
「やることないし、義援金も入ったから、
この前、東京いってキャバクラいってきた」
「おめえ、何、考えてんだ。
この先、何があるかもわかんねえいのに、
そんな遊び金に使って」
「どうしようもないっぺ。
どうせやることないし退屈なんだし。
そう、今日これからパチンコに行く約束、
友達としてっから、オレ、車ないから、
パチンコに送ってけろ」
結局、彼はパチンコ屋にいった。
どうも今回だけじゃなく毎日いりびたっている様子だった。
やめておけといっていた被災者の方も、
パチンコにはまったら危険という意識はあるから、
パチンコ屋には行かないように我慢していたが、
毎日のように朝から晩まで酒を飲む生活に変わってしまった。
仕事がなくやることがないからだ。
義援金などでそこそこの思わぬ収入が入ってきてしまうと、
職探しよりまだお金に余裕があるからと、
パチンコ屋に行ってしまう人も中には出てきてしまう。
気持ちはわからないでもないし、
家もなくし職もなくし、
震災から数ヶ月で別の職を見つける気にもなれず、
つい遊んで気を紛らわしたいという気持ちは仕方ないかもしれない。
でも結局、お金をただばらまけば、
復興とか自立どころか堕落支援し、
被災者が立ち直るきっかけを潰してしまうこともある。
ある被災者は「東電から原発の賠償金の一時金が入ったから、
仮にガレキ処理の有償ボランティアなんかあったとしても、
そんな面倒な仕事、誰も地元の人はしないだろう。お金もあるし」と言っていた。
リーマンショックが起きた時、
2兆円をばらまいた世紀の愚策、
自民麻生政権の定額給付金も同じ、
民主党の子ども手当ても同じ。
「それって親のパチンコ代に消えるだけじゃないの?
金配るんだったら給食代無料にするとか、
そういう方がいいんじゃないの?」と。
金も物もただで簡単にもらえてしまうと、
人は働く意欲をなくす。
ましてや「こんなにひどい大震災があったのだから、
もらって当然」という意識があればなおのこと、
ボランティアに言えばもらえるんだから、
働かなくてもいいだろうみたいな話になりかねない。
先日、海外の貧しい人たちを支援する活動を紹介する、
セミナーに参加したが、
そこでは無償支援はせず、融資・投資が基本だった。
「寄付やボランティアではなく融資や投資で、
お金を返してもらうことが、
支援する海外の人たちの自立も促す。
なんでもかんでもあげたらかえって自立できなくなる。
魚をあげるのではなく、魚のとり方を教えて、
とる道具を貸してあげることが本当の支援になる」
貧困から脱出させる手段として、
寄付ではなく今はマイクロファイナンスが主流になっている。
お金をあげてしまうのではない。
返してもらう。
お金をただあげてしまうのではなく、
働く道具の購入資金にあてる。
あげたお金で“パチンコ”に行ってしまうことがないように。
もちろん、自然災害で損害を被った方と、
海外で貧困の方を支援するのとはまったく性質も意味も違う。
金融機関が企業に融資するとの、
被災地に資金を回すのとはまったく意味が違う。
でも根本的に人間の弱さや醜さやずるさ、
ラクな方に流れてしまい無気力になってしまうなど、
そういった場面を何度も見ている金融的な視点にたつと、
被災者すべてを一律に“接待するお客様”扱いすることは、
かえって自立支援を阻害しかねないことには、
当たり前というか普段の肌感覚としてわかる。
被災地はキレイ事や同情心だけでは復興なんかできない。
本当に貧しい人や高齢者で何も動けないという人ならともかく、
そうでない人にただ金や物をあげるのではなく、
何か自ら行動するきっかけを与えるような支援が望ましい。
支援する人が共倒れしてしまわないよう、
寄付ではなく融資や投資。または消費。
金融的な物の見方で人や土地を見ないと、
本当の意味での被災地の復興はいつまでたってもできないだろう。
本当に親しい家族や友人・知人なら、
何でもかんでも言うことは聞かず、甘やかさず、
仮に彼らにとって耳が痛いことでも、苦言を呈したり、
厳しいことを言ったりするのではないか。
震災直後の無償支援はともかく、
震災から月日が経った今、
何でも言うことを聞いてあげる「ボランティア」ではなく、
長期的に見て被災者が自立できるよう、
アドバイスする「親しい友人」になるか、
もしくは外から状況を客観的に判断できる、
「第三者的アドバイザー」になるか、
仕事上の「取引先」になるかではないか。
タダほど怖いものはない。
金や物は人を狂わせる。
金融的なモノの見方を取り入れて、
シビアに真摯に長いつきあいをしていくことが、
お互いのためになるんじゃないかと思う。