救助に飛び込んだ34歳の男性が死亡するというニュースがあった。
このようなニュースを見る度に思う。
救助に飛び込む人を美談にしてはならないし、
英雄視してはならない。
結果として犠牲者を増やすような行動はむしろ慎むべきではないかと。
今回の大阪の件がどうのという話ではなく、
一般論としてこの手のニュースがあった時に、
川で溺れた子供を助けるために飛び込んだ人って、
死んでしまっても、
「命をかけて子供を助けようとした勇気ある人」
みたいな雰囲気で報道する。
それを見た視聴者は「えらい!」「素晴らしい人!」と褒めたたえ、
もしかしたらその何人かは、
自分がそういう場面に遭遇した時、
テレビの“洗脳報道”を思い出し、
思わず川に飛び込んで、子供を助けることもできず、
自分も溺れ死んでしまうかもしれない。
なんか日本って未だに玉砕崇拝というか、
負けるとわかっていても、
それに突っ込んでいた人を「勇気ある」と、
勘違いして評価する傾向にあると思う。
でも本当に「勇気ある」人は、
たとえ感情的に飛び込みたくなったとしても、
状況を冷静に判断し、
最小限の犠牲で済ませる行動をするのではないか。
子供が溺れている事故で、
救助者が溺れてしまうことも多いという。
テレビドラマの影響なのか、
ニュースで川に飛び込んで助けようとした人を、
英雄視する風潮があるせいか、
思わず川に飛び込んで溺れ死ぬ。
それは救助ではないし、勇気ある行動でもなく、
ただ被害を拡大させ、場合によっては、
社会に大きな迷惑をかけることにもなりかねない。
川で溺れた子供がいたら、かっこよく飛び込む前に、
ペットボトルを川に投げ入れてやればいい。
その方がよっぽども子供も助かるし、
自分の命を危うくしなくて済む。
また自分一人で助けようとせず、
他に助けを求めることも重要だ。
いきなり水に飛び込んで助けるなんて、
正直、最も愚かな方法とすらいえる。
昨年、何度も被災地取材に行ったが、
その時に思ったのは、自分が溺れてしまいそうな人間が、
「助けなきゃ!」という一心で、
ボランティアに執着している様子だった。
困っている人を助けることは素晴らしいことだが、
その自己満足を得るために、
ライフジャケットも身に付けずに川に飛び込むかのように、
自分が泳げないのに助けに飛び込んでしまうかのように、
ボランティアをしている人もいた。
経済的・体力的・精神的余裕もないボランティアが、
お金と時間を使って無償奉仕に精を出せば、
そのボランティアの生活が困窮してしまい、
いわば溺れる人が1人増えてしまい、
今度は誰かが2人溺れている人を助けなくてはならなくなる。
助けにいくならある程度、
自分の安全や経済基盤を確保しなければ、
助けに行くという行為はかっこいいかもしれないが、
結果としては共倒れしてしまう。
また皮肉なことに、
貯金もろくになく、毎日フリーター生活で、
定期的収入がない都会の若者が、
お金と時間を使って被災地で懸命にボランティアしているのに、
一部の被災者は被害にあったとはいえ、
十分な預金もあるし、義援金も入るのに、
ボランティアの助けもせずに、
テレビ見てたり、パチンコ行ったりして、
ボランティア作業を手伝おうともしない。
ある被災者は「ボランティアに来ている人に挨拶もせず、
手伝おうともしない被災者が多すぎる」と憤っていた。
玉砕を英雄視し共倒れを推奨しているといえば、
ガレキの広域処理なんかもそう。
被災地がかわいそうだから痛みをわかちあうべきだと、
被災地以外の放射能汚染を拡大させる可能性があるのに、
ろくに検査もせずに同情論だけで強要する姿勢は、
「溺れている人がいるのだから、あんたも溺れろ」
といっているようなものだ。
みんなが被ばくすることが支援ではないし人助けではない。
でも日本的な風潮でいえば、
溺れている人がいたらあんたが溺れ死ぬ可能性があっても、
川に飛び込むべきみたいな雰囲気がある。
犠牲者が増えれば残された人にも負担がかかる。
大事なことは1人でも多く助けること、
すなわち1人でも犠牲者を出さないこと。
犠牲者を増やすだけの安易な「川への飛び込み」を、
英雄視するのではなく、
冷静な状況判断や行動を促す報道にウエイトを置くべきだと思う。
川に飛び込む前に、ペットボトルを投げ入れる。
それはかっこわるくもないし、
卑怯でもないし、見殺しにしていることでもない。
痛ましい事故を増やさないためにも、
川に飛び込んで助ける人を持ち上げてはならないと私は思う。
・池に溺れた少年をペットボトルで救出 和歌山の主婦機転
http://www.asahi.com/national/update/0603/OSK201106030167.html