神とはもう一人の自分であり、祈りとは自分への暗示効果
2014年 12月 23日

カオダイ教寺院の礼拝の様子を見てきた。
いろんな宗教をミックスした
多神教の宗教なのだそうだ。
新興宗教に限らず、いろんな宗教があり、
いろんな神様がいるわけだけど、
神様って自分とは違う誰かなのでもなく、
人間とは違う偉い人なんかじゃなく、
神様とはもう1人の自分なんだと
最近思うようになった。
1人の自分の中に
いろんな自分がいて、
時に心の中で悩みや
迷いや葛藤が生じたりする。
例えば、今日はポテチを食べようか、
いや体に悪そうだから
やめておこうかみたいな。
1人の自分は
「食べたいなら食べるべきだ!」と言い、
もう1人の自分は
「今日はやめておきなさい」と言う。
これが神様だと私は思う。
人ってややもすると
ラクな方やズルい方に流されがちだ。
ポテチを食うかどうかぐらい
たいした問題ではないけれど、
例えば、道端に財布が落ちていて
10万円ぐらい入っていたとして、
「警察に届けるべきだ」という模範的な自分と、
「今、超金欠でお金ほしいから
ネコババしちゃおうか」
というもう1人の自分がいて、
後者の気持ちが前者の気持ちを上回れば
犯罪を犯すことになってしまう。
そこで宗教を作り出し、
神様を作り出した。
自分ともう1人の自分との対立構造では
弱い自分に負けてしまう人が増え、
犯罪だらけの社会になってしまう。
そこでもう1人の自分ではなく、
別の誰かであったり、別の物であったり、
人間とは違う偉い神様を作り上げ、
「神様が見てるから悪いことすんじゃねえぞ」と、
様々な儀式やら礼拝やら何やらをさせて、
行儀よく生きるための作法=指針とするわけだ。

カオダイ教の目玉は天眼と呼ばれ、
神様の目玉なのだそうだ。
神様が人間の行いを
すべて見ているぞとでもいうがごとき、
玉座に据えられ、
目玉に向かって祈りを捧げる。
カオダイ教に限らず、
どんな宗教も似たようなものだと私は思う。
ただここであやういうのが
教祖みたいなのがいて、
教祖自身が神様になっちゃったり、
神の使いと称して
神のお告げを聞けるみたいなもの。
教祖がこの権威を悪用すれば、
金をせしめたり、
信者にとんでもないことをさせたりすることができる。
でもこんな風に宗教がねじまがってしまうのは、
もう1人の自分に負けてしまう
弱い人間が、何かにすがろうと
神頼みをしてしまうからだ。
神といった途端、
疑問なくすべてを受け入れてしまう。
まともな宗教ならいいが、
いいように操られてしまう恐れもある。
ほんとは神様も教祖もいない。
弱い自分に打ち勝つ
もう1人の自分を持てるかどうか。
神様は一人一人の心の中にいて、
それは他ならぬ自分自身。
自分自身が神様であり、
自分の人生をいかようにでも変えることができる。
自分自身の神様=心を
どう持っていくかで日常や人生が変わるのだ。
そこでどんな宗教にも祈りが必要になる。
祈りとは神頼みすることじゃない。
自分自身への暗示効果だ。

「商売繁盛しますように」
「健康でいられますように」
「家族が幸せでいれますように」
祈りは基本ポジティブなことしか祈らない。
日常生活に流されていると
ポジティブな思考ができず、
不平や不満ばかりがたまっていき、
ネガティブな思考に捉われる結果、
余計、人生がうまくいかなくなる
という悪循環を起こす。
だから神の前の祈りが必要であり、
そこでポジティブシンキングに
なれるというわけだ。
いいことを祈るのは自分の心に
暗示効果をかけているにすぎない。
「うまくいきますように」「うまくいきますように」
神様にお願いごとをしている形をとりながら、
実際にやっているのは弱い自分に
プラスのイメージを受けつける刷り込みだ。
だから強く願い、強く祈れば、
本当に祈ったことが実現する。
それは神様のおかげではない。自分のおかげだ。
自分でセルフイメージを
プラスに変えたからに過ぎない。

カオダイ教は1日に
4回礼拝の時間がある。
ホーチミンでイスラム教のモスクにいったのだが、
ここでも礼拝の時間が決められていた。
ホーチミンのサイゴン大教会も
礼拝の時間が決められている。
なぜ1日に何回も祈らなくてはならないのか。
弱い自分に打ち勝つためだ。
プラスのイメージを
自分自身で刷り込むためだ。
自分自身の心と向き合うためだ。
普段、みなさんは
自分と向き合う時間を持っているだろうか?
ほとんどないのではないか。
毎日の仕事や家事や雑事に追われ、
ただただやらなければならないことだけに流されていく。
ほんとにこれでいいのか?
立ち止まって考え、自分の心の声を聞き、
人生の方向性を考え直す時間が必要だ。
でもそんな時間とれない。
だから漠然と流された人生で満たされない。
そう。人生をうまくいくためには
自分の心の声を聞く時間が必要。
自分と向き合う時間が必要。
その時間を確保するために
宗教では祈りの時間を設定しているのではないか。
形上は神様と向き合うことだが、
それはもう1人の自分と対話することに他ならない。
宗教施設に身を置くことで
日常とは離れた非日常空間を確保できる。
日常の雑事から離れて自分と向き合える。
自分の心の声を聞ける。
だから祈りの時間が決められているのだろう。
世界を旅して思う。
すべては自分の心の捉え方次第。
自分自身の心こそが
果てしない世界であり宇宙。
自分の心次第で楽しくもなりつまらなくもなり、
同じ景色を見ても、
まったく違った風に見えるのだ。
もうまもなく年末年始。
年末年始ぐらいは自分と向き合う
「祈り」の時間を作ってみてはどうか。
それは初詣に行くことなんかではなく、
どこかカフェでもいいし、
家族が寝た後のリビングでもいい。
白紙のノートとボールペン1本を持ち、
自分の心と向き合い、
自分はどんなことを考えているのか、
書き出してみてはどうだろうか。
神頼みではなく誰が頼みではなく、自分自身に自分で頼む。
それがまがいものやイヤなことに依存せず、
自立し楽しく生きる道のスタートラインだと思う。
・カオダイ教寺院・礼拝動画
https://www.youtube.com/watch?v=WnFVmmU0kf0
https://www.youtube.com/watch?v=Td1F1qyRvy0
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